信仰,  社会

山上の垂訓を無視しない救いと福音

キリストの福音とは何だろか?何からの救いだろうか?使徒ペテロはこう言っている。「この曲がった時代から救われなさい。」(使徒2:40)

多くのクリスチャンは、本来死んだら罪の故に地獄に行くはずが、その罪をキリストが十字架で取り除いてくれたことを信じれば(「クリスチャン」になれば)天国に行ける、と信じている。

しかしそんなものが「福音」だろうか?この考えが広まったのは16世紀の宗教改革以降でしかない。特定の教義・教理を信じれば天国に行けるが、それを信じない家族や友人は皆地獄で永遠に苦しみ続ける。そんな神を聖書は愛・憐れみ・恵みと呼んでいるのだろうか?

そうではない。「救い」は、地獄からの救いでもなければ天国へ行くことでもない。イエスが説いた「神の御国」「天の御国」とは、死後の異次元の世界ではなく、この世界で爆発的に広がるべき生き方なのだ。隣人を愛し、敵を愛し、迫害されても赦し、全てを神に信頼して生きる生き方だ。

当時、イスラエルは暴力に満ちていた。プライドの高いユダヤ人はローマ人やギリシャ人を嫌い、それに反応してギリシャ人・ローマ人の間でも反ユダヤ感情が高まっていた。また神殿の中ではユダヤ人同士が血みどろの争いを繰り広げていた。

「俺たちが正しい」
「俺たちこそ選ばれた民だ」
「神は俺を祝福するがお前たちは呪われている」

こういった考えを改め、キリストが説いた愛と平和の生き方を貫くのが、「悔い改め」だ。自己中心、暴力、排他性、律法主義(これを守らない人はダメ、という考え方)、人種差別などの諸悪から救ってくださるのがキリストの教えだ。

現代のプロテスタント教の問題は、キリストの救済使命と倫理的な教が分離されているだ。十字架に掛かって罪を背負って、ペナルティーを払い、何らかの霊的な債務の返済を果たしたことが救い、となってしまっている。これでは、山上の垂訓などに代表されるイエスのラディカルな教えの重要性が格下げされてしまっている。

それは違う。山上の垂訓そのものが救いだ。そのように生きれば人類は変わる。平和が来る。争いが止む。それを真剣に信じて実践するコミュニティができなければいくらリバイバルを叫んで祈っても何度イスラエルに聖地旅行に行っても同じ。キリストの説いたラディカルな隣人愛こそが救いだ。個人的な救いではない。近年あまりにも個人主義が露骨にキリスト教に入り込んでいるが、救いは私たちの家族、コミュニティ、国家、世界の救いなのだ。神の国は我々が行く場所ではなく、我々がいるそれぞれのところで小さな種から始まり、大きく広がっていくものだ。

では、十字架の意味は何だろうか?我々の罪を身代わりに背負ったのではないのだろうか?もうすぐ受難日、そしてイースターの時期だ。その時に、是非マタイ5-7章の山上の垂訓と、マタイ27章のキリストの受難を交互に読むことをお勧めしたい。キリストは十字架の上で、敵の暴力、殺意、拷問、憎悪をすべて一身に受け止め、一切やり返さず、最後に赦しを宣言したのだ。山上の垂訓を極限の形で実践されたのが十字架なのだ。

確かに我々の罪を背負った。しかし、それは神が何の代償を払わせたのではない。十字架は神のアイデアではなく、暴力と殺意に塗れた人間のアイデアである。キリストは十字架の上で神に呪われたのではない。呪ったのは我々だ。その呪いと、それによる苦しみと死を忍んで受け入れたイエスこそが、神の本当の姿なのだ。罪を罰し人を滅ぼす神ではなく、自分の身が滅びることになっても赦すのが本当の神の姿だと啓示されたのだ。

これを理解してこそ、復活は意味あるものになる。栄光の身体で復活されたのではなく、傷を負った身体で復活された。神を死なせてしまった弟子たちが、キリストを復活を聞いて恐れたのはなぜだろうか?なぜ喜ばなかったのだろうか?

それは、神の復活は、彼らの頭の中では復讐を意味するからだ。しかし、キリストは復讐をせず、「平安あれ」(ヨハネ20:21)と言った。そして、打たれても虐げられても復讐をせず平和を語り続けることができるよう、復活のイエスが今も我々と共にいてくださる。それがイースター、それが神の御国、それが世界の救いだ。