信仰,  歴史

アメリカが地獄へ行った時

この記事はすごくインパクトがあったので、翻訳して載せることにしました。米ミズーリ州セントジョセフにあるWord of Life Churchのブライアン・ザーン師の記事です。

クリスチャンは普通、死んだら天国か地獄、と信じるものなのになぜ僕はそう信じないのか。それを疑問に思う人はたくさんいます。それが理解できず、受け入れられずに僕を「異端だ」と攻撃する人も、Facebookからブロックした友達もいます。この記事を読んでくれたら、なぜ僕が死後の地獄を信じないかが何となく分かると思います。

この中で、『ハックルベリーフィンの冒険』の話が出てきますが、古い英語の為、僕の和訳がかなり怪しいと思いますが、スルーして下さい!笑

アメリカが地獄へ行った日

ブライアン・ザーン
2014年2月27日

「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら」―イエス(ルカ19:42)

1861年の4月にサムター要塞に最初に銃弾が撃ち込まれる直接のきっかけが奴隷制度だったかは、学者の間で議論されています。議論の余地がないのは、250年も続いた奴隷制度が火に油を注ぎ、アメリカの南北戦争を623,000人もの命を奪った巨大な戦火へと発展させたということです。ジェームスタウンに始まり、アメリカの植民地、さらに合衆国本土で世界でも類を見ない残酷な奴隷制度が行われました。経済的な利益の為に何百万人もの人の人間性を整然と奪う制度は、平和を呼ぶものではありませんでした。そのような冷酷な搾取は、限度を超えて死と地獄をもたらす結末に至るのは当然でした。南北戦争の恐怖の間、「自由の国」は燃えるゲヘナと化しました。南部の3割の戦闘可能な年齢の男性が戦場で命を落とし、また近代化戦闘の幕開けでもありました。今後、戦争はより総合化され、機械化されていくのです。黙示録の4人の騎士がアメリカを縦断し、戦争、疫病、飢餓、そして死をもたらしたのです。

しかし、悲劇的に皮肉なことに、南北戦争の10年ほど前に、霊的なリバイバルがアメリカ全土に起こっていたのです。アメリカ人は教会や福音派の集会に大勢詰めかけました。特に、比較的冷淡な北部に比べると、宗教心の熱い南部でこのリバイバルが広がり、キリスト教は強い情熱で受け入れられて行きます。アメリカ全土でリバイバルが広がり、教会は大きく成長し、入信する人も倍増しました。人々は救われ、イエスを崇め、天国について語りました。それから皆地獄へ行ったのです。少なくとも、キリストが受難の前の数日間で警告したのと同じ地獄です。この偉大な「リバイバル」にも関わらず、キリスト教大国アメリカは、大砲、ガトリング砲、野戦病院、そして切断のこぎりに溢れた地獄に堕とされたのです。偉大な都市が炎で燃やされ、野原は何千もの腐った死体が横たわりました。火は消えることがなく、蛆は尽きることがありません。どこで誤ったのでしょうか?何百万人の人が「イエス様を受け入れた」のです。ホザナと叫びました。しかし、平和のことを知らなかったのです。罪人の祈りもし、「神との関係を回復」もしましたが、奴隷を所有したままだったのです。罪人を義人とする信仰を持ちながら、奴隷に対して正義を行わなかったのです。天国行きのチケットの信仰を持っていましたが、それは地獄への高速道路でした。南部の保守的な教会の宗教的熱意は、自分たちが天国から祝福されたものだと思い込ませただけでした。南部人たちの友「ジーザス」に対する深い献身を神も喜んでいると確信していたのです。自分たちの自由を守るために戦争に行く必要があるとすれば、仕方ない、神は自分たちの見方だから。そう確信していました。しかしその代価は地獄だったのです。

戦前の南部の保守系の教会が、キリストにおける信仰の旗を振りかざし、使い古された聖書を握りしめながらも、どれだけ酷い過ちを犯していたかを理解していただくために、目撃証人の助けを求めることにします。それは、私と同じミズーリ州出身の作家、マーク・トウェインです。『ハックルベリーフィンの冒険』という素晴らしい小説の中になる「嘘を祈ることはできない」という章で、ハックはワトソンさんの家から逃げてきた奴隷のジムを匿います。でも、ハックは奴隷の脱走を助けている自分が罪を犯しているのだと思い込みます。ハックは日曜学校で「自分みたいなことをする人は永遠の炎に行く」と学んでいたのです。そこで、自分の魂を救う為に、ワトソンさんに手紙を書き、そこに逃げた奴隷の居場所を書きます。これでハックは「罪人の祈り」を祈り「救われる」準備ができたのです。

「最高の気分だった。人生の中で最も完全に罪から洗い聖められたように感じる。これで祈ることができると分かった。でもすぐにはできなかった。先にその紙を置き、考えた。これがこのように起きたことがどれだけ素晴らしいことか、そして自分が地獄行に近づいてしまったということ。そして考え続けた。川を下ったときのことを思い出した。ジムはいつも自分の前にいた。日中も、夜も、月明かりの時も、激しい嵐の時も、流れ続け、喋り、歌い、笑った。彼に対して心を閉ざすことはできなかった。逆の感情しかなかった。彼は自分の見張りの番を終えても、俺が寝続けられるように僕を呼ばすに見張り続けることもあった。俺が霧の中から戻ってくる時も、領地の近くの沼地に居た彼のところに戻った時も、いつも大喜び。いつも俺のことを「ハニー」と呼び、かわいがってきて、俺が喜ぶと思うことを何でもしてくれた。また船の男たちに「俺たちは天然痘持ちなんだ」と言ってようやく彼を助けられと時も、彼は大喜びで、俺のことを最高の友達、そして今となっては唯一の友達と言ってくれた。それらのことを思い巡らしてから、その紙が再び目に入った。既に手紙は閉じていた。それを拾い上げ、手に握った。震えが止まらない。二者択一の永遠の選択をしないといけない。少し考えた後、息を抑えながら、自分にこういった。「分かった、俺は地獄に行く」と言ってその手紙を破り捨てた。最悪な思いと最悪な言葉だったが、言ってしまった。その言葉はそこに残ったままで、それから改心しようと考えたことはなかった。」
―ハックルベリーフィンの冒険

ハックはミズーリ州の日曜学校で出会ったキリスト教に影響されていました。死後の天国にばかり目を向け、この世では現状維持に努めるようなキリスト教です。ハックは、ジムを奴隷から解放するのを助けるのは罪だと思っていました。そのように教わったからです。ハックは、「悔い改め」てジムを裏切る準備ができるまで神に赦しを求めることはできない、と分かっていました。ハックは地獄には行きたくありません。救いを望んでいます。でもハックはそれ以上に友を愛したのです。ハックは友人を奴隷から解放するために地獄に行くことを選びます。トウェインは、クリスチャンが救いについてどれだけ歪んだ考えを持っているかを見事に示してくれています。ハックが、正義を成し遂げる為に、自分が罪を犯していると思ってしまうのです。キリストのように行うことが、キリスト教を捨てることだと思ってしまうのです。隣人を自分自身のように愛する行為によって自分の魂が地獄に堕とされると思ってしまうのです。よく考えてみてください!

マーク・トウェインは、その優れた文筆によってアメリカ南部の保守的キリスト教を串刺しにしました。もしマーク・トウェインが信仰をもったクリスチャンでなかったとしても(そうではなかったようです)、彼はその時代に生きるクリスチャンへの預言者でした。預言的な声を絶望的に必要としていた、妥協にまみれたキリスト教です。奴隷の労働に依存していた経済を維持するために、南部の教会は致命的に歪んだ信仰を受け入れていたのです。自分では何をしているのかは分かっていなかったでしょうが、彼らはイエスと聖書を効果的に用いて人種差別的な僭越を正当化し、自分たちの利害を守りました。日曜日に教会に行きました。救われました。イエスを愛しました。シュロの主日にシュロの枝を振ってホザナと叫んだでしょう。しかし、18世紀前のエルサレムの群衆と同じように、平和のことを知らなかったのです。イエスは地獄に向かっていたアメリカを見て涙を流したでしょう。教会堂は満たされ、奴隷制度は続きました・・・南北戦争までは。そして、アメリカの罪の故に623,000人の人が死にました。

これはただの歴史の復習ではありません。ここから学ぶべきものがあるのです。平和のことを知らなければ、地獄への道をまっしぐらに歩むことになります。それもイエスへの愛と救われたことの喜びを歌いながらです。これに心が乱されるはずです。どうして何世代もの人たちがイエスについて正しいことを語りながら間違った道を歩むのでしょうか。なぜ礼拝を上手にやる方法を知っていながら、平和のことを知らないのでしょうか。イエスは、平和のことが私たちの目から隠されていると話されました。そして、多くの場合、それは旗です。愛国心が意味するものが、市民的な責任を駆り立てる場のプライドなら、それは構いません。でも、愛国心が「正しいか正しくないか関係ない、自分の国を支持する」となってしまえば、それは平和のことに対して集団的に盲目になってしまいます。高く翻る国家主義の旗は、キリストの平和を人から隠してしまう長い歴史があります。それがローマ、ビザンチン、スペイン、フランス、イングランド、ドイツ、ロシア、アメリカの旗であろうが、平和のことを私たちから隠してしまうようになれば、もはや無実で温和な愛国心の旗ではないのです。では、平和のこととは何でしょうか。血にまみれたブーメラン、自作の地獄に堕ちない為には、何を理解すべきなのでしょうか。キリストはこう言いました。

「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」マタイ7:12-14

平和を築くものは二つの素晴らしい命令です。神を愛し、隣人を愛することです。特に二番目の戒めです(神への愛は、隣人に対する自己犠牲の愛なくして成り立ちません)。この「黄金則」、自分の行動を隣人の目線で評価することこそが、狭くて難しい道、命と平和に至る道なのです。狭い門は「罪人の祈り」ではありません。狭い門とは、キリストの生き方を実践することです。狭い門とは、キリストがしたように隣人を強烈な愛で愛することによって、律法と預言者を成就させることです。私たちが考えの違いから他者を嫌うとき、国家主義を理由に他者を悪魔のように思ったり人間性を否定したりするとき、また経済的な理由から他者を利用して搾取する時、私たちは滅びに至る広い道を歩んでいるのです。万人が歩いた戦争と破滅への道を選んでしまっているのです。そして、さらに深く当惑させられるのは、やがていきつく滅びに向かって超高速で広い道を走りつつ、イエス様に賛美を歌を歌うことは何の問題もなくできるのです。最初のシュロの主日にそれが起きました。150年前にアメリカで起きました。そしてこんにちもそれが起きています。もし、私たちが敵に対して持っている軽蔑と敵意をイエスも持っていてそれを是認していると考えているなら、私たちは平和のことを何も知らないだけでなく、それは必然的に破滅へと向かっているのです。その最悪の結末に辿りつくのに数世代かかるかもしれないだけです。もし、死後の天国で自分たちを慰めながら、この世で地獄を造りだしているなら、私たちは卑俗な十字軍の宗教と引き換えに、救い主に対する真の信仰を捨ててしまったのです。

BZ

原文

When America Went to Hell