モリヤ山下山運動

ユダヤ教徒やキリスト教徒の間で「信仰の父」として知られるブラハムですが、聖書の物語の中では、彼の信仰のために息子のイサクが生贄にされてしまいます。今も敬虔な宗教指導者や一般信者の多くの子供達が、イサクのごとくモリヤ山で生贄にされています。私はそのような人達の声をもっと聞き、寄り添えるようになりたいと思っています。

聖書の話では、イサクは殺されることなく、代わりに生贄となる羊が与えられて父アブラハムと一緒に山を下りたことになっています。しかし日本には、親の信仰心によって幼少期から数々の犠牲を強いられ、山を下りられずに生贄の羊のように縛られ、心臓にナイフを突き刺されるような思いをする人が少なくありません。

宣教師の子だった私は、2世として様々な葛藤と闘ってきました。幸い、私の両親は、私や兄妹が社会性を著しく損なうような子育てはしませんでした。信仰の中身は大きく変わった部分もありますが、今でもキリスト教信仰を持っていますし、社会にも馴染めています。しかし、親との関係やその宗教との関係と、社会で自分らしく生きていこうとする意志とが衝突し、自分のアイデンティティや人間関係に悩んだり、社会に馴染めずに孤立する人は少なくありません。

これから、どのような宗教・信仰であっても、或いはもう信仰を持っていないという人であっても、社会に馴染めず苦しみを抱える「宗教2世」と呼ばれる人たちと連帯していきたいと思っています。皆から称賛を受ける父アブラハムの信仰の陰で、世のイサクたちが犠牲になるのは止めなければなりません。自分を守るためにも、父アブラハムを離れてモリヤ山から勇気をもって下山しなければならないこともあります。

敬虔な親を持つ子供は、周りから「素晴らしい霊的財産が与えられていますね」などと、親の宗教心に故に評価される言葉を聞いたりします。しかし、私たちは親の信仰心とは関係なく、一人一人がそのままで認められ、受け入れられ、尊重され、愛されるべき存在です。

同じような経験を持つ人達で、一緒に連帯していけたら素晴らしいと思います。