パウロ,  釈義

学び―ガラテヤ4章

ブログの更新がだいぶ空いてしまいました。最近改めてガラテヤ書を読んでいるんですが、やっぱりいいですよね。私たちの神に対する、イエスに対する、福音に対する考え方を一新してくれる素晴らしい手紙です。3章までの考察を書きましたが、4章も続けたいと思います。

1章2章は、パウロがエルサレム教会で権力を持っていたヘブライストたち、つまり、クリスチャンになるためには異邦人も割礼を受けてユダヤ教の慣習を守らないといけない、と説いていた人たちに対して、パウロは異邦人クリスチャン、そしてユダヤ人と異邦人が文化の違いを超えて一つになって主を礼拝している真の教会の姿を守るために、イエスの一番弟子のペテロや弟のヤコブに対して強く物申す姿が見られました。そしてその中で、我々が「律法の行い」と他者を殺してまで排除するピネハス的「熱心」ではなく、アブラハムのような従順な信仰を通して義とされることを論じています。

1-3節 ところが、相続人というものは、全財産の持ち主なのに、子どものうちは、奴隷と少しも違わず、父の定めた日までは、後見人や管理者の下にあります。私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。
アブラハムの肉的な子孫だけでなく、アブラハムのように神に信頼する人すべてが神の相続人となることは3章までにパウロが論じています。しかし、それが理解できずに、律法のこれこれを守らないといけない、みたいな考えに陥っていたののを、相続予定の子どもにうまく重ね合わせます。
4-7節 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。
キリストがユダヤ人として、律法の下にある人間として生まれたのは、律法の下にあるものを「贖い出す」ためだとパウロはここで言っています。でも、パウロは既にキリストの贖い、キリスト的信仰はユダヤ人も異邦人も違いはない、と論じたばかりなので、ユダヤ人を救う為というよりは、律法的な考えに捕らわれた人を救う為、てことでしょう。この「ノモス」は、律法より「原理」と広い意味を含んでいるかもしれません。
ここの「贖い出す」は、救出の意味合いはありますが、「代価を払う」みたいな意味合いここの文脈にはありません。ガラテヤの教会の人のキリスト信じる前の状態を、律法の下にいる「奴隷」に例えていますから、奴隷からの解放という意味での「贖い」という言葉のチョイスでしょう。通常奴隷が自由人になるには、主人にお金を払って自分の身を「贖う」必要がありますが、モーセの律法では、ユダヤ人の奴隷は7年経てば解放されるなど、必ずしもお金を払わなくても自由になれるケースがありました。ここでのフォーカスは、「自由になる」という結果で、どのように(誰が誰に何を払うか、など)というロジックが整理されている訳ではありません。だからここからパウロがキリストの十字架を「贖罪」と見ていたとは言えないでしょう。
また、イスラエルはローマの支配から解放されることも「贖い」と言っていましたので、やはり「救い出す」「解放する」という理解が妥当だと言えます。
8-11節 しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。 あなたがたは、各種の日と月と季節と年とを守っています。 あなたがたのために私の労したことは、むだだったのではないか、と私はあなたがたのことを案じています。
ここの4-7節からそのまま理解できるでしょう。「無価値の幼稚な教え」―パウロはピリピ書で、自分は律法を守ることにおいては完璧だったが、それは「ちりあくた」(直訳:糞)だったと言っています。律法を一字一句守ろうとするというより、他から「ここは大事」と言われたところを守る人がほとんどです。今の教会もそうです。聖書をすべて守っていないのに、自分が守りやすいところ、伝統的に大事にしていたところを強調し、そこを守らない人の信仰を卑下するクリスチャンは多いです。それは、無価値で幼稚な考えで、まだ奴隷生活をしているかのような考えです。
12-16節 お願いです。兄弟たち。私のようになってください。私もあなたがたのようになったのですから。あなたがたは私に何一つ悪いことをしていません。ご承知のとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり、きらったりしないで、かえって神の御使いのように、またキリスト・イエスご自身であるかのように、私を迎えてくれました。それなのに、あなたがたのあの喜びは、今どこにあるのですか。私はあなたがたのためにあかししますが、あなたがたは、もしできれば自分の目をえぐり出して私に与えたいとさえ思ったではありませんか。それでは、私は、あなたがたに真理を語ったために、あなたがたの敵になったのでしょうか。
ここでパウロの親のような心を読み取れますね。かれは怒りに任せて書いている部分もありますが、本当はガラテヤの教会を愛しています。最初にガラテヤの人達と出会った時、彼が病気か怪我か何かでそこに立ち寄ったのがきっかけだったかもしれません。黙示録にある有名な「初めの愛に戻りなさい」を思い出します。最初にガラテヤの人々がパウロに示した親切を、それを取り戻してお互い教会の中で親切に接し合うコミュニティになってほしい、というのがパウロの願いでしょう。
17-18節 あなたがたに対するあの人々の熱心は正しいものではありません。彼らはあなたがたを自分たちに熱心にならせようとして、あなたがたを福音の恵みから締め出そうとしているのです。良いことで熱心に慕われるのは、いつであっても良いものです。それは私があなたがたといっしょにいるときだけではありません。
ここでまた「熱心」という言葉が出てきます。パウロは、自分の経験からも「熱心」が悪い方向に行ってしまいがちだとうことをよく分かっていました。「あの人々」とは、割礼やコシェルなどを異邦人にも強要しようとするヘブライストたちのことでしょう。
19-20章 私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。それで、今あなたがたといっしょにいることができたら、そしてこんな語調でなく話せたらと思います。あなたがたのことをどうしたらよいかと困っているのです。
パウロは血と汗と涙でガラテヤの教会を建て上げましたが、このような状況になった今、再びその人たちのうちに「キリストが形造(られる)」必要があるとパウロは感じているようです。一緒に居たい、一緒にキリストを分かち合いたい、というのがパウロの本心で、ここでも彼の「親心」が読み取れます。
21-26節 律法の下にいたいと思う人たちは、私に答えてください。あなたがたは律法の言うことを聞かないのですか。そこには、アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです。このことには比喩があります。この女たちは二つの契約です。一つはシナイ山から出ており、奴隷となる子を産みます。その女はハガルです。このハガルは、アラビヤにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、彼女はその子どもたちとともに奴隷だからです。しかし、上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です。
「律法」というより、自分たちが恣意的に選択した律法の一部分で他者を縛ることは、「律法の下にいる」ことになります。しかし、「律法」には色々は幅があります。ユダヤ人にとっては、モーセの十戒も律法ですし、それ以外のあらゆる戒めも律法ですが、モーセ以前のできごとについて書かれた創世記を含め「モーセ五書」、つまり「トーラ」全体も「律法」です。
そこでパウロはモーセより遡り、アブラハムの2人の「妻」の話を比喩的に引用します。アブラハムとサラが「子供が欲しい」「もう待てない」と思ってアブラハムと結ばれた女奴隷ハガルによる出産と、人間的には絶対無理な状況にも関わらず、神からの約束によるサラの出産とを比較します。
少し無理矢理に思えますが、パウロは「肉による出産」をしたハガルを「シナイ山」つまりモーセの律法と結び付けます。しかし次が面白いです。「今のエルサレム」と結び付けます!!これは明らかにペテロを中心として律法遵守を異邦人の教会にも広めようとしているヘブライスト達の活動拠点となっているエルサレム教会への批判です。しかし、「上にあるエルサレム」、つまり「真の王の都」、イエスが描いた神の国こそが我々が待ち望むものであり、自由の国だ、とパウロは説いています。
27-31節 すなわち、こう書いてあります。
「喜べ。子を産まない不妊の女よ。
声をあげて呼ばわれ。
産みの苦しみを知らない女よ。
夫に捨てられた女の産む子どもは、
夫のある女の産む子どもよりも多い。」

兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

創世記21では、ハガルの子イシュマエルがサラの子イサクを虐めていたことが原因で追い出されてしまいます。パウロは、ガラテヤの人達に「お前たちは約束の子だ、しかし肉に属するあの人たちに迫害されている」という構図を作ります。

30-31節 しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」 こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。

ここのパウロの「聖書」の使い方は非常に恣意的です。これは、ガラテヤの教会をヘブライスト達の影響から遠ざける為のレトリックであって、本来の旧約聖書の該当箇所がそのように語っている、と言うふうに読むのは、注意が必要です。なぜなら、「奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない」は、ハガルを追い出すようアブラハムに迫ったサラの言葉であり、神の言葉ではないからです。

神は創世記では「しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」(21:13)そして「行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ。」(21:18)と言っているとおり、イシュマエルにも相続を与えることを約束しているからです。

ですから、パウロがここで聖書を使って語ろうとしているメッセージは、非常にパワフルで大切で、ガラテヤの人達を自由にしたい、束縛から守りたい、という一心で語っていて、その内容は我々の教会でも大いに参考にできるでしょう。しかし、彼の創世記の引用の仕方が、創世記の記述の本来の意図ではないということに注意すべきでしょう。ここでは長く触れませんが、それがイシュマエルの子孫とされるアラブ人に対する偏見や差別にも繋がりかねませんので、注意が必要です。

かなり久しぶりの投稿になりましたが、4章はここで終わりです。自分の久しぶりに、しかも途中まで長く溜めていたものを仕上げて書いたので、後でまた修正するかもしれません。近々5章も書いていきたいと思います。かなりの感情を込めて喜怒哀楽満載に手紙を書いているパウロですが(そして彼の書記を務めた人はパウロの唾を相当被ったんじゃないでしょうか、可哀想に!笑)、手紙を締めくくるにあたって、どのようにガラテヤの教会を導いていくのでしょうか?