ブログ「ラビの足下」へようこそ

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私は宣教師の家庭に生まれ育ち、プロテスタントの中でも「聖霊派」や「カリスマ派」と呼ばれる教会で育ちました。当たり前のように毎週教会に通い、聖書箇所を暗記し、成長するにつれて自分の時間に祈ったり聖書を熟読したりするようになりました。

私はその中で、イエスキリストに対して確固たる信仰を抱くようになっていましたが、自様々な人と出会う中で、それまで当たり前だと考えていた保守的な聖書観や「正しい教義」へのこだわり、性的マイノリティへの差別など、引っかかりを覚えることが増えていきました。

2015年の夏頃、自分がこれからどのような信仰を持っていくのか、酷く悩んでいました。通勤中に、それまで自分の信仰の原点であったイエスの言葉を読もうと思い、4つの福音書を止まって考えたりすることなく、ひたすらぶっ通しで続けて読みました。一節だけ引っ張り出した「暗唱聖句」というのを子どもの頃からよく行っていましたが、福音書のストーリーとして流れるように読む中で、キリストの本当のメッセージは、自分の周りの多くのクリスチャンが大切にしていること(日曜日の礼拝、献金、死後の天国や地獄、婚前交渉の禁止など)と全く関係がないのだと確信しました。

今自分が考えている聖書の読み方やキリスト教信仰のあり方は「リベラル」や「自由主義」と呼ばれることが多いです。「ちゃんと聖書に書いてある通りに信じず、自分勝手に信じる箇所を選んでいる」というような、揶揄的なニュアンスで使われることも多いですし、自ら「リベラル」というレッテルを避ける人も多いです。でも私は、敢えてその言葉を使います。「リベラル」とは、聖書に対して次のような姿勢を持つ人達だと言えるでしょう。

・聖書に書いてあるからと言って、必ずその通りにそれが起きたとは限らない
・聖書はところどころ不完全な人間の偏見や思想的動機によって歪められている
・聖書を解釈して実生活に応用する際に、近現代の科学的知見を十分に考慮すべきである
・キリスト教の中で「当たり前」とされてきた「聖書的真実」も問い直すべきである

ざっくりこのような姿勢を持つ人が「リベラル」だと言われます。それに対して、このような可能性を基本的に排除し、聖書を「誤りなき普遍の神の言葉」として捉える人達は「福音派」「福音主義」と呼ばれ、リベラル派と対立構造にあるかのように理解されることが多いです。でも私は、福音派も公に認めないだけで、自分たちの教理や考え方に上記のような要素を多分に含めていると思っています。

私は、上記のような聖書の読み方、キリスト教信仰に対する考え方を積極的に取り入れていくことを覆い隠すつもりは一切ありません。よって「リベラル」を自ら名乗ります。

ただし、私はキリストが説いたメッセージ、そして聖書が創世記から黙示録まで描いているストーリーには、人の人生、そしてこの世界を変えるだけの大きな力があると真剣に考えています。決して聖書やキリスト教の伝統を軽視しているのではなく、聖書が本当はどのような書物であるか、またキリスト教が社会の中でどのように人々の生活と結び付き、信仰のあり方として形成されてきたかを考える時に、これらの要素を取り入れながら聖書と真剣に向き合うことこそが、これからのキリスト教のあり方において不可欠だと思っているからです。

キリスト教信仰は終わりなき旅のようなものです。イエスと一緒に旅しながら、その足下でたくさん学ばせていただきたいです。皆さんも一緒に旅をしませんか?

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