信仰

もっと聖書を読もう!

多くの聖霊派、福音派の教会では「聖書にはこう書いてあります、聖書の教えはこうです」というようなメッセージが語られるが、信徒に「聖書はこうやって読むんだよ」と教えるところが少ないと感じます。

神学校に行かなくても教会である程度聖書の読み方、聖書とはどういう書物でどういう成り立ちがあり、聖書に関して今までどんな論争があって、どういう聖書観があるのかなど、もっと教え込む必要があると思う。

それがないと、教会で教えられたことが聖書に書かれたことだと皆思い込む。そして自分が開いている箇所は読めるけど、他にどんなことが書いてあるのか全然分かっていない人が多いように感じます。

多くの場合、教会で教えられる聖書の教えは、現代社会の産物であって、元々の意味とは全然離れてしまっています。でもそれが当たり前だと皆信じ込むし、それを正しくチェックする能力が備わっていない。

よって、かなり偏った聖書理解がよく見受けられます。それ以外の聖書理解を持ち出す人はちょっと警戒、他の教団教派も警戒。そしてこれとこれとこれとを否定したり疑問視すれば異端。そんな姿勢を取るクリスチャンも残念ながら多いです。

これは日本に限ったことではないですけどね。ある知り合いの神学者は、聖書学校で当たり前に学ばれているようなことが教会で一般信徒に語られるまでに75~100年かかる、と言っています。実際、今の多くのプロテスタントクリスチャンは、未だにルターやカルバンの聖書解釈が正しいと信じ切っていますし。

これを変える為にはどうしたら良いんだろう?とは思いますが現状自分にできることは限られているので、その間自分で学び続けるしかないな、と思っていますが。

でも、まず、皆にできることは、聖書を読むことです。もっと読むこと。そして、今まで教えられてきたことを一旦頭の中から完全に抜き去って、聖書の文字を一つずつ丁寧に、分かっているつもりではなく「何が書かれているんだろう?」という新鮮な気持ちで読んでみる。それをするだけで、「あれ、教会ではああ言ってたけど、そんなこと本当は書かれてないよね?」とか「こんなことも書かれている、何で教会でこれには触れないんだろう?ああ、あの教えと矛盾してしまうから都合悪いのかな」などと気づくようになります。

次に、それに対する人間としての自分の感情に素直になることです。「これは書いてることおかしいんじゃないか?」「パウロさんこんなこと言ってるけど流石にアウトだろJK」とかでも良いんです。神の権威はあなた一人が聖書を素直に疑問視する程度で崩れないし、神はそんなことに怒るほどケツの穴が小さくもないです。最初から「聖書に書いてあれば絶対正しい」とかではなく、素直に反応して見て「じゃなぜこう書かれたんだろう?」から色々と広げてみると良いです。

最後に、それを誰かに分かち合うことです。相手は慎重に選んだ方が良いですが。自分の疑問や質問を受け止めてくれる人、教会で当たり前に教えられてきた見方に反することを言っても断罪せず一緒に考えてくれる人、そして「ここはこうだと思う」に対して「いや、でもこういう理由でそれは違うと思う」と反対意見もちゃんと言える人が良いと思います。一人だけで解釈してどんどん意見を固めていくとそれも危険なので、誰かと一緒に探究しながら読むのが良いと思います。

僕は思ったことをFacebookに素直に書きます。そして色々な神学、ギリシャ語やへブル語に精通した友人がいっぱいいますので、おかしなことを言ったらすぐに指摘が入ります。時々むかつきます(良いこと言ったと思ったのに~~~笑)。でもそこから更なる学びも得られます。

教会の人達、特に若者がもっと聖書を読み、読んだものについて考え、話し合い、理解を深め合っていく姿が見たいな~、と思います。