社会,  釈義

2レプタのやもめの「信仰」!!?

久しぶりの投稿です。これからはもっとブログ記事を頻繁に上げて行きたいと思います。まだ途中だったガラテヤの学びも終わらせたいです。

今お邪魔している教会の「ディボーション」で、ルカ21:1-4の「2レプタのやもめ」の話について話し合ったようです。私は用事で行けなかったのですが、自分なりにルカ21:1-4を読み、調べ、考えてみました。やっぱり、今までずっと聞いてきたありきたりな解釈は全然納得がいきませんが、全体の文脈を読むと納得行く理解の仕方がありました。当然だ!なぜ今まで気付かなかったのか?

まず、この箇所は「神様にもっているものをすべて捧げましょう」とか、そういうこととは一切関係ないと思います。「ああ、神様、この2レプタのやもめみたいにあなたに全て捧げます」とか言う人いますが、君捧げてないでしょ、ていつも思います。全部献金箱に投げ入れてないでしょ。「いや、やること全て神様の為にやるんです」。いやいや、あなたがやりたいことをやって、それを神様の為にしているように言葉遊びをしているだけです。*自分が決めたやりやすい方法で*「神様の為に」やっているのであって、現代のクリスチャンがいう「神様に全て捧げる」は、このやめもの2レプタ捧げる姿とは全く異なります。お金をたくさん持っていて有名になったり活躍したりやりたいことができてそれを「神様の為」というレトリックで包むのと、明日どう生きたらいいか分からない状態で財産を献金するのと、どこが似ているんでしょうか?それを同一視するのはよく言えば無知、悪く言えば傲慢であり偽善であると思います。また、イエスは「だからあなた方も同じように全てを捧げなさい」とはここでは言っていないんです。

では文脈を見て行きましょう。イエスは、ここで我々がクリスチャンとして生きる為の教えを叩き込んでいるのではないです。ルカの6章ではありません。もう21章です。それは何を意味するでしょうか?イエスのストーリーが、クライマックスへと向かってるんです。もうすぐ十字架です。これは、ガラリヤで群衆に教えているのでも、隠れた所で弟子たちに奥義を叩き込んでいるのでもないのです。

ルカ19章で、イエスはエルサレムに入城します。そしてやがて来るエルサレムの滅びを予言し、泣きます。その後に19章の最後に、「宮浄め」を行うんです。ルカ19:45-47では詳細が書かれていませんが、「強盗の巣にしている」との批判が出てきています。この「強盗の巣」は、エレミヤ7章からの引用です。イエスはエレミヤからたくさん引用しますが、これはすべて「神殿への批判」なんです。イエスは単に「おい、何神殿を使って金儲けしてんだよ」て言っているのではなく、「もうこんな神殿はいらない、なくしてしまえ!」と言っているのです。

「主からエレミヤにあったみことばは、こうである。「主の家の門に立ち、そこでこのことばを叫んで言え。主を礼拝するために、この門にはいるすべてのユダの人々よ。主のことばを聞け。イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。あなたがたの行ないと、わざとを改めよ。そうすれば、わたしは、あなたがたをこの所に住ませよう。あなたがたは、『これは主の宮、主の宮、主の宮だ。』と言っている偽りのことばを信頼してはならない。もし、ほんとうに、あなたがたが行ないとわざとを改め、あなたがたの間で公義を行ない、在留異国人、みなしご、やもめをしいたげず、罪のない者の血をこの所で流さず、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、わたしはこの所、わたしがあなたがたの先祖に与えたこの地に、とこしえからとこしえまで、あなたがたを住ませよう。なんと、あなたがたは、役にも立たない偽りのことばにたよっている。しかも、あなたがたは盗み、殺し、姦通し、偽って誓い、バアルのためにいけにえを焼き、あなたがたの知らなかったほかの神々に従っている。それなのに、あなたがたは、わたしの名がつけられているこの家のわたしの前にやって来て立ち、『私たちは救われている。』と言う。それは、このようなすべての忌みきらうべきことをするためか。わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目には強盗の巣と見えたのか。そうだ。わたしにも、そう見えていた。――主の御告げ。――」エレミヤ7:1-11

そう、もう神殿は人を差別し、排除し、宗教的権力を盾に取ってあらゆる罪を是認するものになっていたのです。エレミヤはそれを約500年前に批判しましたが、イエスはそれを引用して同じような批判を行うだけでなく、実際に宮に入っていって生贄をやめさせ、物理的な神殿の代わりに自分の復活した体が全ての人に命を与える朽ちることのない神殿になると宣言されたのです。

その後20章では、律法学者への批判として悪い管理人の譬え話をします。そして20章の最後では、律法学者にまたまた律法学者を痛烈に批判し、彼らが「やもめの家を食い潰す」(47節)と言います。

これが21:1-4の文脈です。神殿の話がずっと行われていて(この後も行われます)、直前に「やもめ」が出てきてこの話なのです。だからこれは「おお、このやもめさん神様にすべて捧げたんだね、すごいね、信仰だね、見習おうね!」とか、そんな話じゃないんです!!!!!!!!やもめの家が、腐敗した神殿システムによって食い潰されている話なんです。勿論、神様はちゃんとそれを見ている、このやもめの捧げものを一番喜んでいる、そうです。それは間違いありません。でもそこがこの話の味噌ではない。本当はこういう貧しいやもめや孤児、外国人など、イスラエルの中で生きていくのが大変な人たちを支える為の律法や神殿なのに、それがステータスやお金のある祭司や律法学者たちに都合良いように利用されていて、貧しい人たちはさらに蹂躙されていったのです。それに対してイエスが我慢できなかったのです。

もう一つ忘れてはいけないのは、*このやもめは献金する必要が全くなかった*ということです!!!*貧しい人たちは、献金を捧げる側ではなく、受け取る側です(申命記14:28-29、26:9-14)。自分たちの財産と力を誇るために金持ちがバンバン人前でお金を投げ入れることで、お金がない貧しい人たちにも本来律法上必要のない献金をするように強いていたのです。

すぐ後の5節から、イエスはこの神殿が破壊されることを予言します。マタイやマルコにもこの流れが見られますが、ルカで言えば19章~21章のこの流れ、つまり神殿への批判とその権威に対する挑戦こそが、イエスが捕まえられ十字架に架けられる原因になったのです。ですから、これは十字架の話です。「ぼくギター弾くんだけど、全部神様の為に弾くんだ!」「あたし、バレエやるけど、神様の為に踊るんだ!」とか、そんな陳腐な馬鹿げた現代人の夢物語じゃないです。そんな風にこの話を扱うのはこのやもめにも失礼だし、イエスの十字架を無視してしまっています。

この話の中心は、そう、イエスキリストです。彼は声なき者の為に声をあげ、そして殺されました。そのイエスの生き方に私たちはどう応答するでしょうか?「おお、このやもめすごいな、見習おう」じゃないんですよ!そういう献金、貧しい人たちを食い潰すようなお金の巻き上げをやめないといけないんです!

当時の神殿は今でいう政権のようなものです。私たちもイエスの倣いたければ、今の社会制度で貧しい人たちを苦しめているものがあれば、それに対して声をあげるべきじゃないでしょうか?それか、教会の献金がそのようなものになっていないか見直す必要があるかもしれません。我々のお金の使い方が正しいのか、貧しい人たちをさらに貧しくしていないか?教会のお金の使い方や運営の仕方や文化が、貧しい人が居づらかったり、無理して捧げないといけないような雰囲気を生み出していないだろうか?また、イエスのように声なき者のために声をあげることに命をかける生き方ができているだろうか?

そういう反省のポイントが無数にあるストーリーです。

纏めると:
・イエスは神殿制度への批判を繰り広げている
・神殿は当時の貧しい人たちを食い潰していた
・このやもめは本来献金を捧げるべきではなかった
・イエスは権力に蹂躙されている人たちの為に声をあげ、それゆえ殺された

しかし、イエスは殺されただけでなく、蘇り、今も生きています。イエスこそが主です。そして、弱き者の為に声を上げる生き方こそが、永遠の命なのです。