パウロ,  聖書学

キリスト教は本当は「パウロ教」?

よく、今巷で信じられているキリスト教は「パウロ教だ」という人がいます。パウロが聖書の中にある「パウロ書簡」で書いている内容と、イエスの生涯を伝える「福音書」の内容には大きく違う所があることは、かなり前から指摘されています。

つまり、イエスが教えた福音を「福音A」とすると、パウロはイエスの死後15-30年後に、イエスが教えたこととは違う「福音B」を語り、その教えに基いた教会を作っていった、という主張がよくなされます。このようなことを言う神学者もいますし、またキリスト教のことをよく知らない人も、イエスとパウロを対立させて「今のキリスト教は『パウロ教』で、イエスの教えとは違う」と言うことがあります。

実際そうでしょうか?キリスト教の歴史から考えてみましょう。イエスキリストの教えを守り、分かち合い、実践しようとするユダヤ人コミュニティがパレスチナ地方で興り、パウロなどの宣教と通じて地中海全域に広がっていきます。その中で今新約聖書の一部となっている手紙や証言書が書かれ、そこから集会の典礼ができていきます。

パウロの教会は、エルサレムを中心にユダヤ人の間で開拓されていった諸教会と違い、異邦人を積極的に加え、さらに割礼を不必要だとしました。2世紀以降、教会の数が増えていき、様々な異なった神学が生まれ、それを統一しようと神学的な議論が活発になっていきますが、今残っている資料では、その舞台に居たのはほぼ異邦人でした。その中にユダヤ人の声があまり残っていないは非常に残念なことだと言えます。キリスト教が初期の「ユダヤ的要素」を多分に失ってしまったという部分はあるかもしれません。

しかし、そこから発展していき今に至るキリスト教を「パウロ教」と言うのは適切でしょうか?先に私の答えを言うと「否」です。次の3つの点から考えていきたいと思います。1)パウロ書簡と福音書の成立時期、2)パウロが語った福音に対する当時の教会の見解、3)パウロ以外の使徒たちの宣教活動。

1.パウロ書簡と福音書の成立時期

パウロの書簡が書かれたのは、50-65年ぐらいだと言われています。そして福音書は、マルコ→マタイ→ルカ→ヨハネの順に、大体70年~90年の間に書かれたと考えられています。実際のそれぞれの書簡の成立時期には諸説ありますし、パウロの書簡の一部を偽書だとする学者も多いですが、パウロの書簡の大部分(正真正銘パウロの著者だとされるもの)が先にかかれ、福音書が後に書かれたということには異論はありません。

さて、もしキリスト教が「パウロ教」ならば、あとに書かれた福音書にもパウロの教えの影響が多分にあるはずです。しかし、そもそもの「パウロ教」主張が、パウロ書簡と福音書の内容の不一致なので、当然福音書がパウロの教えに強く依存しているはずがありません。福音書著者は部分的にパウロの影響を受けているという指摘はありますが、全体的に福音書が「パウロ的」とはとても言えません。

要するに、福音書が書かれた1世紀後半には、パウロ一人の教えに依存しないキリスト教信仰のコミュニティが多数あったということです。さらに、ギリシャ語を使うそのようなコミュニティが沢山あったことも大きなポイントです。当然、後に発展していったキリスト教の典礼や信条、教義は、パウロの書簡だけでなく、福音書からも十分に引用していますし、2-4世紀に神学的考察を残した教父たちも福音書を多分に活用しています。

2. パウロが語った福音に対する当時の教会の見解

そうなると、パウロ教がキリスト教にそのままなっていったのではなくとも、やはりパウロはキリストと違うことを教えていた、当時のパウロは、他の教会の教えとは違う「パウロ教」をやはり築いていたのではないか?と言う人がいるでしょう。

1で言った通り、パウロの書簡と福音書は互いの独立したものです。では、矛盾するものでしょうか?勿論、福音書の一部とパウロの書簡の一部を取り上げて「ほら、矛盾している」ということもできるかもしれません。しかし「ほら、ここは一致している!」と言える部分も多いでしょう。この記事ではあえてそういったことはしませんが、代わりに当時の人達がパウロの教えをどのように捉えていたかを聖書から見てみます。

パウロは、ガラテヤの1-2章で、ガラテヤの諸教会に、ある人々が来て彼の宣教活動を妨害しようとしたことを語っています。彼らは①パウロが正統な使徒ではない、そして②パウロは間違った福音を語っている、と主張しました。さらにこの人たちは、ペテロやヤコブなどエルサレム教会のリーダー達と繋がっていることを主張し、パウロが教えていることがその「おもだった」使徒たちと食い違っていると言い広めていたことが読み取れます。

これに対し、パウロはシリアやキリキヤで14年ほど宣教活動を行った後、エルサレムに上ってペテロ達に直接自分が語っていた福音について説明します。その結果どうなったでしょうか?パウロの証言によると

「そのおもだった人たちは、私に対して、何もつけ加えることをしませんでした。それどころか、ペテロが割礼を受けた者への福音をゆだねられているように、私が割礼を受けない者への福音をゆだねられていることを理解してくれました。ペテロにみわざをなして、割礼を受けた者への使徒となさった方が、私にもみわざをなして、異邦人への使徒としてくださったのです。そして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し伸べました。それは、私たちが異邦人のところへ行き、彼らが割礼を受けた人々のところへ行くためです。」ガラテヤ2:6b-9

ですから、ここを見ると「パウロはイエスの教えとは違った独自の教えを説き始めた」という主張は当てはまりません。パウロはイエスの死後に回心したため、他の弟子たちのように地上で活動した時のイエスと直接関わっていません。それもパウロが批判される原因の一つでしょうが、このエルサレムの会議では、ペテロ、ヤコブ、ヨハネはパウロの福音を「正統」なものとして認め、彼に右手を差し出します。(ガラテヤ1:23-24でも、パウロが回心後に語った福音が当時のクリスチャンに問題なく受け入れられていたことが分かります。)

これだけでは、「これはパウロが自分で言ってるだけではないか」と言われそうですが、それも違います。ガラテヤ書はパウロが書いていますが、「パウロ教」の主張でパウロの著書と対立軸に当たる福音書の一つ「ルカの福音書」を書いた人は、「使徒の働き」でもガラテヤ2章の会議内容を載せています。使徒15章です。そこでは、ペテロは右手を差し伸べて祝福しただけでなく、7-10節で反対者たちを説得する為の応援演説もしたことが分かります。ヤコブも同様にヘブル語聖書の預言を引用してパウロ側に明確につきます(13-21節)。

ですから、パウロ自身、そしてパウロの教えていた内容に依存しないイエスの証しを書いていた「ルカ」の双方が、パウロの教えがエルサレム教会に認められていただけでなく、そのリーダーたちが聖書も引用しながら積極的に支持していたことを書いているのです。

3.パウロ以外の使徒たちの宣教活動

パウロが語っていたことは、決して彼が独自に編み出した別の教えではなく、パウロ以外の使徒たちが中心となっていた教会にも認識されていたし、支持されていたということが分かります。しかし、初期の教会が完全に一枚岩だった訳ではないのも事実です。実際、上記のエルサレム会議でも、パウロはガラテヤ書では使徒たちが「何も加えなかった」とは言っているものの、イエスの兄弟であり、エルサレム教会のリーダーだったヤコブは手紙の中で「偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように」と、少しばかり律法的なことを書いています(ただ、パウロもこの事柄に少なくとも部分的には同意していたでしょう)。

その後も、教会史において、ユダヤ人とユダヤ教の慣習を守ることを中心とした信仰コミュニティを率いたヤコブと、異邦人の間に広く広がり、ユダヤ色が薄れていったパウロの諸教会の間で対立が深まっていたことが読み取れます。その間を取り持つ為に奔走したのがペテロでした(ガラテヤ2章では悪者扱いされますが)。1コリント1:12などでは、ペテロがコリントの教会を訪れていた可能性が読み取れます。また、ペテロが後にローマに移り初代教皇となり、のちに皇帝ネロによってパウロと同様処刑されたと言われています(ペテロがローマでの活動については、計画な歴史的な根拠はあまりないですが、ローマで処刑されたということはほとんどの学者が同意しているようです)。

初期の教会には様々な意見や立場の衝突があったのは間違いないでしょう。しかし、その中でパウロの教えだけが外れていて独特のものだったという主張は成り立ちません。パウロの教えは、他の教会の「柱」と言われていた人達も応援するものでした。また、ペテロがローマに行ったことから分かるように、異邦人の間に積極的に出て行ったのはパウロだけではなかったのです。

ヤコブは後にユダヤ教のサンヘドリン(最高議会)と衝突して殺害されるまでずっとエルサレム教会の指導者であり続けますが、もう一人の「柱」とされていたヨハネは、エルサレムを離れてエペソなどで活動したことが教父たちの文書に書かれていますし、後にスミルナの長老となったポリカリュプスはヨハネの弟子だったと言われています。つまり、「パウロ教」論ではパウロとイエスの教えについて対立しているはずのイエスの直弟子の2人が、パウロと同様に異邦人の教会にも大きな影響を与えている訳です。

まとめ

以上のことから、私はキリスト教は実は「パウロ教だ」という主張も、パウロがイエスやイエスの直弟子たちとは違った独自の教えを作り出したなどという主張も、根拠の乏しい論だと考えます。

パウロは色々な人から大きく誤解されていると私は思います。確かに独特な人だったでしょうが、私はパウロは聖書の中の誰よりもイエスのスピリットをもって活動したと思っています。この記事では書ききれませんが、パウロを西洋神学のレンズではなく、多文化の影響を受けながら第二神殿期のユダヤ社会で育ったユダヤ教徒として読めば、パウロの見方が変わってくるかもしれません。それについては、また別の機会に触れたいと思います。

2件のコメント

  • Naoto Oshiro

    こんにちは、

    「パウロ教」という呼び方がある事は初耳でした。いわゆる「パウロの福音」という事で色々と言われている事はありますね。

    パウロの福音が「ただイエス・キリストの啓示によって受けた」(ガラテヤ1:12)のなら、本質は同じだと思います。「違い」が見えてしまうのは、イエス様が「ユダヤ人」に教えていた事、教えていた方法とまだ新しい契約が始まっていなかったからです。

    「パウロは聖書の中の誰よりもイエスのスピリットをもって活動した」事については、私もそう思います。彼は使徒たちの中で唯一多くの奥義を先に知る事になりました。

    • talmid

      コメントありがとうございます。
      要するに、今のキリスト教の教えのほとんどがイエスの言葉よりパウロの言葉に依拠している現象から、そういう批判が出るのだと思われます。
      確かに、特に改革派をはじめとするプロテスタントは、パウロの言葉に強い影響を受けていますし、イエスの教えを相対化してしまっていることは私も危惧します。
      でも初代教会から数多く残っている教会についての文献では、イエスの教えがないがしろにされてパウロの独自の教えが教会を担っていった、という現実はないです。

      尚、僕はイエスの教えが「まだ新しい契約が始まっていなかった」という部分については同意しません。
      これはディスペンセーション主義の人たちが良く言うことですが、僕はその立場には強く反対です。

      イエスの教えは、当然文脈や時代などを考慮すべきですが、基本的にクリスチャンが従うべきものだと考えます。