学び―ガラテヤ4章
ブログの更新がだいぶ空いてしまいました。最近改めてガラテヤ書を読んでいるんですが、やっぱりいいですよね。私たちの神に対する、イエスに対する、福音に対する考え方を一新してくれる素晴らしい手紙です。3章までの考察を書きましたが、4章も続けたいと思います。
1章2章は、パウロがエルサレム教会で権力を持っていたヘブライストたち、つまり、クリスチャンになるためには異邦人も割礼を受けてユダヤ教の慣習を守らないといけない、と説いていた人たちに対して、パウロは異邦人クリスチャン、そしてユダヤ人と異邦人が文化の違いを超えて一つになって主を礼拝している真の教会の姿を守るために、イエスの一番弟子のペテロや弟のヤコブに対して強く物申す姿が見られました。そしてその中で、我々が「律法の行い」と他者を殺してまで排除するピネハス的「熱心」ではなく、アブラハムのような従順な信仰を通して義とされることを論じています。
声をあげて呼ばわれ。
産みの苦しみを知らない女よ。
夫に捨てられた女の産む子どもは、
夫のある女の産む子どもよりも多い。」
兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。
創世記21では、ハガルの子イシュマエルがサラの子イサクを虐めていたことが原因で追い出されてしまいます。パウロは、ガラテヤの人達に「お前たちは約束の子だ、しかし肉に属するあの人たちに迫害されている」という構図を作ります。
30-31節 しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」 こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。
ここのパウロの「聖書」の使い方は非常に恣意的です。これは、ガラテヤの教会をヘブライスト達の影響から遠ざける為のレトリックであって、本来の旧約聖書の該当箇所がそのように語っている、と言うふうに読むのは、注意が必要です。なぜなら、「奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない」は、ハガルを追い出すようアブラハムに迫ったサラの言葉であり、神の言葉ではないからです。
神は創世記では「しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」(21:13)そして「行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ。」(21:18)と言っているとおり、イシュマエルにも相続を与えることを約束しているからです。
ですから、パウロがここで聖書を使って語ろうとしているメッセージは、非常にパワフルで大切で、ガラテヤの人達を自由にしたい、束縛から守りたい、という一心で語っていて、その内容は我々の教会でも大いに参考にできるでしょう。しかし、彼の創世記の引用の仕方が、創世記の記述の本来の意図ではないということに注意すべきでしょう。ここでは長く触れませんが、それがイシュマエルの子孫とされるアラブ人に対する偏見や差別にも繋がりかねませんので、注意が必要です。
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かなり久しぶりの投稿になりましたが、4章はここで終わりです。自分の久しぶりに、しかも途中まで長く溜めていたものを仕上げて書いたので、後でまた修正するかもしれません。近々5章も書いていきたいと思います。かなりの感情を込めて喜怒哀楽満載に手紙を書いているパウロですが(そして彼の書記を務めた人はパウロの唾を相当被ったんじゃないでしょうか、可哀想に!笑)、手紙を締めくくるにあたって、どのようにガラテヤの教会を導いていくのでしょうか?