社会,  釈義

人間の解決策は、キリストにとっては問題そのもの

僕は、イエス・キリストが啓示した神はいかなる時にも完全に非暴力だと信じている。一切暴力を振るわず、一切の暴力を認めない方だ。

「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ5:39-46)

イエスはこれを限定的なコミュニティ形成の意味で話した、というような言い逃れも読んだことがあるが、そのように読める理由はない。勿論、このようなラディカルな敵への愛、非暴力、無報復を貫くのは難しいし、社会としては不可能とも思える。しかしそれが天の父のスタンダードなのだ。「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」(48節)

これは簡単なことではない。暴力は時には必要、という意見も最もに思える。しかし「暴力も時には必要」という社会そのものがイエスの描いた「神の国」からかけ離れているのではないか。