教会史,  社会

新しい『宗教改革』?

現在、キリスト教において大きな変革が起きている。初期の教会で議論、討論されていた神学的テーマが、今一度熱く語られている。贖罪説、創世記、終末論、地獄などに関する様々な新しい見識が語られているように見えるが、実はこれらの概念議論され続けてきたことが再浮上しているに過ぎない。

しかしそれに対して原理主義的、保守的な福音派の人達は酷く苛立っているのが見える。彼らは、自分たちの宗教的体系を疑問視されたり、議論されたりするのを好まない。今までそれしか聞いたことがなく、それしか知らないからだ。他の誰かによって築かれた特定の聖書理解の格子が崩されると、信仰その者が崩されると恐れているからだ。自分の聖書理解=神、真実と思い込んでいる。

我々は新たな宗教改革に踏み入ろうとしているが、原理主義者たちが期待していたものとは大きく違う。焦っている彼らはあるゆるものを「異端」と呼び、「キリスト教が攻撃されている」「クリスチャンが騙されている」という主旨の記事を書いたりツイートやFacebook投稿などで、自分の頭で考えて可笑しいものを「可笑しい」という人を叩いている。

繰り返すが、私や他の進歩主義や米国で言う「イマージェント教会」の人達が語っていることは決して新しいものではなく、現代の社会や文化の常識が生んだ教条主義の殻を破り、ずっと教会史の中で行われてきた議論を再燃させているにすぎない。

神学の目的は、天地創造の神を知る事である。その中で核となる思想は「神は変わらない」ということだ。しかしこのことを大きく誤解している人がたくさんいる。神が変わらない、よって神学も変わっていはいけない、と思いがちだ。長年築かれてきた教義を疑問視したり、聖書の言葉を再検証して解釈し直すのはいけないことだと思われがちだ。

しかし、神は変わらなくても、我々は変わる。我々の神に対する理解が完全に正しい筈がない。自分の神概念、自分の神に対する理解を「神」と同一視してはいけない。

今、教派や伝統を問わず、世界中のクリスチャンの間で起きていることは、イエス・キリストが啓示された福音を見直し、本当の神の姿をそこに見出すことである。そこから見えてくる神は、我々が思っていた以上に美しく、愛と恵みを憐れみとに満ち満ちたお方だ。愛と怒り、恵みと刑罰、憐れみと裁きなどの二面性をもった神ではない。怒りも裁きも懲らしめも否定はしないが、それは全て神の愛によって行われるものであり、最終的には憐れみが必ず勝利するのだ。

我々は、イエスのアバ父以外の神を礼拝できない。それこそが神の変わらぬ永遠の姿だ。神は変わらぬお方だが、神でない我々は、自分の考えを変えることができなければ、今の保守的な教会のように、この世界にとって用無しとなり、暗闇の中に消えてゆくしかない。

最後に、敬愛するブライアン・ザーンド師の言葉で締めたい。

「神は、いつもイエスのような方だ。
神は今までずっとイエスのような方だった。
神がイエスのようでなかったことは一度もない。
今まで私たちはこれを知らなかった。
しかし、今は知っている。」

神がどのようなお方かを知りたければ、イエス・キリストの生き方と教えを見るのみだ。