信仰,  社会

「聖さ」から「憐れみ」へ

今、欧米では「キリスト中心解釈」というものが広がっていて、原理主義的な聖書無誤説や、神が自分の子どもを殺したとする「代罰贖罪説」、そして死後の永遠の地獄など、ここ数百年でプロテスタントによってでっち上げられた教義から離れ、キリストが教えた粋の福音に回帰しようとしている。より科学的、歴史的に信憑性のある聖書解釈、そして初代の教父たちが信じていたもの、キリストと同時代のユダヤ人の視点などにも着目した聖書解釈に近づこうとしている。エマージャント・チャーチ(Emergent Church)などと呼ばることもある。

その特徴の一つは、「聖さの規範」(Holiness Code)をなくすこと。クリスチャンとしてこれはいけない、あれはいけないなど、そういったものはキリストの福音にない、という考えだ。すべては愛と自由に基いていて、その中で勿論モラル的な判断もできる。確かに、キリストがパリサイ人や律法学者と衝突したのは、彼らに聖さが足りなかったからではない。彼らに憐れみが足りなかったからだ。逆に、「聖さ」という概念で人を分け、本来神に愛されたはずの人たちを裁き、区別・差別していたのをイエスは断罪した。彼らの「聖さ」は、ちゃんと聖書に基いていたが、生贄よりも憐れみを好む神を啓示したイエスは、それをも否定した。イエスは神殿で売買していた人たちを追い出したとき、単に欲望にまみれた商人を追い出したのではなく、生贄用の容器を持ち運ぶことも許さず、動物も追い出したのだ。つまり、ユダヤ教の捧げ物のシステムを全否定したのだ。

 「聖さの規範」をなくす、などというと、「奔放主義」などと批判されるが、パウロも恵みを語ったが故に同様な批判を受けたのだ。多くのプロテスタント教会は、神の「聖さ」をやけに強調するが、そのような語り方をイエスはしていない。レビ記11:44、20:26などには「あなたがたなは聖くありなさい。私が聖いからだ」と書かれているが、イエスはそれを少しひねって引用する。「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい」(ルカ6:36)そう、イエスがパリサイ人や律法たちを衝突したのは、彼らに聖さが足りなかったのではなく、憐れみが足りなかったからだ。

保守的な教会がいつも言う禁止事項や必須事項(婚前交渉、同性愛、献金、集会の参加、ディボーションなど教会による異なる)は、人間が作った宗教であり、それは福音ではない。では、保守的な信仰から進歩的な信仰に移行すればそれでいいのか?そんなこともない。僕が保守派の教理から離れたのは、聖書を深く読んだからであり、福音派が教えていたことは矛盾だらけで聖書と照らし合わせても一部の箇所の狭い解釈としか合わないのだ。そこで進歩派に傾倒しはじめたが、進歩派にも同じ問題がある。彼らも聖書理解、子育て、妊娠中絶などに関して意見が合わなければ「あなたは十分進歩派とは言えない」と言ったり、「貧しい人に施していなければクリスチャンとは言えない」と言うなど、保守派と同じような独善的な部分がある。

貧しい人たちに施すのは当然大切で神の国に近いものだが、それでクリスチャンかどうか決まる訳ではない。そんな考えだったら、貧しい人たち自身はクリスチャンになれないのか?そもそも「良い」か「悪い」かでいうと、保守派のクリスチャンがいつも押し付けようとするものも、決して悪い者ではない。婚前交渉を我慢して結婚まで純潔を保つのは素晴らしいことだし、献金も教会を維持し、地域や世界中の必要に応えるために欠かせないものだ。問題は、ルールを設けて線引きをし、それを破った人に恥を掻かせて「悔い改め」を強いることだ。これをするとき、我々はイエスが「ノー」といった生贄を捧げてしまっている。自分の経験で言うと、進歩派も保守派と同じだけこれをしてしまう傾向がある。自分もそうなってしまいがちだ。

勿論だからといってクリスチャンは倫理・道徳について話し合えない訳ではない。しかし、自分たちのモラルを聖書箇所を挙げて正当化するのではなく、兄弟姉妹として何が最も愛と憐れみと祝福に繋がるかを真剣に考えていくことが大切だ。

ここ数年で進歩派に傾倒した者として、決して忘れてはいけないことがもう一つある。保守派の人の考えを見ると、「聖さの規範」に縛られていて窮屈な信仰生活を送り、自分や他人を裁いているようなクリスチャンを批判したくなる。でも、彼らがキリストのような愛と憐れみを示せないのでは決してない。自分の今までの人生の中で最も愛と憐れみと慈悲と優しさを自分に示してくれた多くの人は、保守派クリスチャンだ。自分がまだニュージーランドに居た時にお世話になった家族は、常に留学生や親がいなくなった子ども、ホームレスなどを家に招いて世話をしていた。キリストの愛の温もりを周りにいる人が皆体験できるような人たちだった。保守派のクリスチャンの多くは、世界中で最も虐げられた人に神の福音を届け、必要に応える為に仕えているのも紛れもない事実だ。それに比べれば自分に愛など無に等しい。

自分が新しい教えに出会って感動したとき、「あ!俺には真理が分かった!」と驕ることは簡単だ。でも私たちは正しい神学的理解で救われるのではない。また救いは個人のものでもない。神は実に「世を愛した」のであり、神の御心はこの世が救われることである。よりキリストの御心に近い神学的理解を得ることも大切だが、それより大切なのは、聖霊によって心が変えられ、排他的、批判的な態度が変えられてキリストのように憐れみと慈悲の心をいつでも人に示せるようになることだ。

天の父が憐れみ深いように、私たちも憐れみ深い人になりたいものだ。