信仰,  聖書学

聖書の霊感説―2テモテ3:16について

「聖書は一字一句誤りなき神の言葉」という主張を僕は否定しますが、こういう議論になると相手は必ず2テモテ3:16を出してきます。しかし2テモテ3:16の「霊感」を無誤無謬の根拠にするには弊害がありすぎて枚挙に暇がありません。2テモテ3:16は無誤謬の根拠にはならないということを5つのポイントで示します(無誤謬の根拠となり得る聖書箇所が他にないとは言っていません)。

1. まず、聖書の無誤無謬を聖書で示すというのは循環論法であり、説得力がありません。僕が本を書き、「この本はすべて神の霊感で書かれてあり、一切誤りがありません」と書いたら信じてくれるのでしょうか?勿論聖書であれ誰であれ自分自身についての主張をすることは可能ですが、その主張は様々な方面から検証されてしかるべきです。

2. 文法の問題。この節には動詞がありません。英語の is に相当するコプラがないので、訳す時にどこに入るかを考えないといけませんが、その場所によって意味が変わります。「聖書はすべて神の霊感によって書かれ…」という訳と、「すべて神の霊感によって書かれた聖書は…」という訳が可能です。後者であれば、霊感で書かれたものとそうでないものがあることになります。いずれにせよ、これはギリシャ語の専門家の中でも意見が分かれており、英語のNRSV訳では前者を採りながら後者も可能だと註釈に載せています。

3. 通常用いられる訳が正しいと仮定して、次に問題になるのが「霊感」の意味です。theopneustosという形容詞ですが、新約聖書には他に用例がありません。ギリシャ語の他の文献に散見されますが、「誤りがない」という意味では使われていません。語源は「神」と「息」ですが、だからといって合成語になった時にそのままの双方の意味を保つ保証はないですし、神の息だったとしても、人間も神の息によって造られたとされていますが完全無誤ではありません。また滑稽なのが、聖書は誤りがなく完全だと主張する「聖書無誤説に関するシカゴ声明」では、聖書無誤が何を意味して何を意味しないのかを20世紀の英語を使って19カ条の文で定義しないといけなかったことです。明らかな矛盾がある箇所は、矛盾を解消するための説明を必死に作り上げ、聖書の記述の誤りを明確に示す歴史的・科学的証拠に関しては「神の敵だ、信仰を破壊しようとしている」と陰謀論を唱えます。ここまで来ると哀れですね。

4. 次に「聖書」とは何かについて考えないといけません。ギリシャ語の graphē は「書物」の意味で、キリスト教の正典に限った表現ではありません。2テモテの執筆時期には新約聖書はおろか旧約聖書でさえ正典が定まっていなかった可能性があります。著者が現代の66巻の聖書を意図していた可能性はまずないです。またこの同じ章では、数節前に「ヤンネとヤンブレ」が出てきますが、これは紀元前1世紀か2世紀に書かれたアラム語のタルグム・ヨナタンからの引用です。他にもアポクリファ(外典)を示唆する箇所はローマ書などにあります。正典を編纂した教会は外典も編纂しています。そして偽典に含まれるエノク伝はユダの手紙で引用がありますし、ヨベルの書もパウロがガラテヤで示唆しています。これらもすべて「聖書」として神の霊感を認めて無誤無謬として教えるはずがないですよね?では、何が「聖書」で何が「聖書」から外れるのか、どのようにして決定するのか?決定するための条件が正しいかどうかをどうやって測るのか?これらの問題が拭えません。

5. 最後に、4のように「聖書」の範囲を納得行く形で決定できたとして、また「霊感」=「無誤」を立証できたとして、「霊感」がどのように、そしてどこまで働くのでしょうか?まず、テモテの著者が旧約聖書を想定したとして、オリジナルのヘブル語が無誤なのか、それとも新約聖書の著者が引用したギリシャ語の七十人訳が無誤なのか?現代訳は「マソラ本文」と呼ばれるヘブル語の写本を基に訳していますが、このマソラ本文は、元々母音がないヘブル文字に母音記号を足したもので、最古の写本は10世紀のものです。母音記号は見直されたりもしますし、一つ母音が変われば意味も大きく変わります。この母音記号(イエスキリストを信じないユダヤ人によってつけられたもの)は無誤なのでしょうか?さらに、霊感は聖書の言葉を語ったパウロに働いたのか、それともそれを書き写した書記に働いたのか?その後写本を作成した写字生に働いたのか?一般に「原典において誤りがない」と言われているのは、写本には無数の食い違いがあるからですが、ではなぜ原典に及んだ霊感が写本、そして翻訳には及ばなかったのかという疑問も出てきます。今は原典はありませんが、そもそも「原典」という概念自体虚構に過ぎないという考えが本文批判を行う専門家の間で定着しています。

以上が僕の2テモテ3:16についての疑問であり、この一節が聖書の無誤・無謬の根拠にはならないと考える理由です。