信仰

福音VS教条主義

現代のキリスト教と、イエスキリストが語った福音は何万光年も離れている。

多くの、特にプロテスタント系福音派の教会は、正しいことを信じれば死んだ後に天国に行けると信じている。逆に言うと、正しいことを信じなければ地獄に行くのだ。これは福音ではなく、教条主義だ。正しい教義、信条を認めることによって救われるという、全く聖書の福音にはない考えだ。

私たちは所詮限られた脳みそと限られた情報を集め、分析することしかできない。しかも時代や文化からくるバイアスのせいで、完全に正しい知識・理解なんか得られるはずがないんです。そして、この教条主義には2つの要素がある。

1つは「信仰」という言葉の誤解だ。聖書が語る信仰は、権威から教えられた教義・教理を知的に認識する事とは何の関係もない。聖書が教える信仰は、私たちを愛し、良くもので満たして下さる父なる神への信頼だ。私たちは、父なる神が正しい方だから、それに信頼することで救われるのだ。

それが分らない人は自分が教えられた枠から抜け出せないし、抜けだそうとする人、外れたことを発信する人をすごく毛嫌いし敵視し攻撃する。間違ったことを信じてしまうと地獄に堕ちるという恐れに支配されているため、間違いを恐れずにいろいろな考えを探究して試していることができない。教会が見るべきでない映画や読むべきでない本やブログ(このブログもそう言われていたりして!笑)などを決めることもある。「まだ未熟な信者を守るため」「躓かないため」などと言うが、一番躓いて転げまわっているのは教条主義と権威主義に縛られた教会指導者たちではないだろうか。

神は天のお父さんだ。「子供のような信仰」とよく言うが、子供は何でも聞いたことを鵜呑みにはしない。子供はいつも「なんで」と疑問を持つ。でも、子供の大きな特徴は親を完全に信頼することだ。親が必ず自分を愛してくれ、守ってくれると。この地上の親は(自分も含め)その信頼に応えられない時もあるが、天のパパは決して失敗することがない。そこに信頼を置けば、疑問を抱き、猜疑心、探究心、好奇心を存分に発揮しながら信仰を成長させていけるはずだ。

「信仰」を勘違いしてはいけない。教義を無批判に受け入れることではなく、天の父なる神の愛に信頼を置くことだ。疑問を持たずに信じるのではなく、信じるから疑問を持つのだ。神は必ず揺るぎない愛を持って支えてくれるが、自分の知っている知識や教理は完全ではなく、疑って当然だ。でも神が土台であれば別に疑って間違った方向に行っても心配はない。