パウロ,  釈義

学び―ガラテヤ1章

ブログを更新するのがかなり久しぶりになってしまいました。Facebookやツイッターでは引き続き信仰について発信してきましたが、ブログにはなぜかあまり手が付けられていませんでした。また復活させて、すべての人を包み込む神の愛の計画、イエスキリストの素晴らしい福音についてシェアしていきたいと思います。

今回から、もう少しダイレクトな聖書の学びとして書いていきます。まずはガラテヤ書です。なぜこの書を選んだかというと、この書の内容は、私たちの教会の在り方、信仰生活の在り方、神に対する見方、互いの人間に対する見方を根本から覆すほど力のある書だからです。このガラテヤ書を、内容をかみ砕きながら、当時の文脈に合わせて解釈していき、今の私たちの現状に当てはめていきたいと思います。

まず、パウロの手紙を読むときに考えないといけないことは、何の為に手紙を書いたかです。パウロは神学書を書いたのではありません。椅子に座って「さあ、そろそろ私の命も終わりに差し掛かっているから、自分の神学的な考えを後世のすべてのクリスチャンのために残そう」として書いたのではありません。手紙にすべて名前がついていることからも分かるように、特定の人たちに、特定の目的で書かれています。

ですから、書いてあることには皮肉や、他の人の言葉を借りた論じ方もあり、また最近の説では偽教師と対話形式を演じるために役者を手紙の中に作っているという指摘まであります(パウロがそうしたと証明するのは難しいでしょうが、そのような技法はギリシャ文学では知られています)。それをすべて神の言葉で、文面通り理解してそれが福音だ、とはいかない場合もあるのです。聖霊が助けてくれるからそのまま読んで理解すればいい、という考え方もカルトの温床です。当時の時代背景と手紙の文脈を考察しながら読むほか、手紙を書いたパウロの真意に迫る方法はないのです。

そのことを踏まえつつ、一緒に読みながら、1節、2節ごとに僕なりの考察・解説を加えていきたいと思います。バイブル・スタディなどにも役立てていただければと思います。では一章から・・・

1:1使徒となったパウロ――私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです。――

これはオープニングの挨拶なので特に・・・と思いがちですが、ここで既にパウロは挑戦的なことを書いていることにお気づきでしょうか?「人間からでたことでなく、人間の手を通したことでもなく」。なぜパウロはこのように言うでしょうか?手紙を読み続けると、誰かがガラテヤの教会に入ってきてパウロが語った福音とは別の福音を語っているようです。その中で、パウロをけなすようなことも言ったのかもしれません。「あいつは自分の力で宣教をしている」とか。それか、パウロはイエスを復活させた神によって召された自分と、人間的な機関を通して意思決定している他の教会に属する「使徒たち」と自分を比較して言っているのかもしれません。「奴らは人間から出て語っているが、私は違う」と言わんばかりに。いずれにせよ、「人間ではなく神」という言い方はガラテヤ書を通してずっと出てきます。

1:2および私とともにいるすべての兄弟たちから、ガラテヤの諸教会へ。 1:3どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。

3節は通常の挨拶文で、他の手紙にも見られます。

1:4キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。 1:5どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン。

キリストは、悪の世界から私たちを救ってくださったのですね。死後の地獄ではありません。僕は、死後の永遠の地獄には明確に反対の立場を貫いていますが、パウロは神に背いた生き方に対する警告を書くことはありますが、永遠の地獄の刑罰については一切語っていません。使徒の働きでの弟子たちの伝道もそうです。地獄は「福音」の一部では全くないのです。

1:6私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。 1:7ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。

挨拶文が、他の手紙よりも短いです。ローマや1コリントなどと比べても、多くの部分が抜けています。例えば、「あなたがたの故に神に感謝しています」や「あたながたを覚えていつも祈っています」、「あなたがたの信仰のことを聞いて喜んでいます」など、その人たちを思いやる言葉が冒頭部分に通常含まれていますが、ここにはありません。パウロはガラテヤ教会の創始者で、ガラテヤ教会の人たちは自分の子供みたいで、自分は父のような存在だったのである程度社交辞令的な部分は省けたのかもしれませんが、それよりも、パウロは心底憤慨していたのではないでしょうか。迫害に会いながら、苦労しながら伝えた福音が歪められ、誤った福音を語る人たちが入ってきて惑わしてしまったのでしょう。それに影響されてしまっていたガラテヤ人に、我慢がならなかったのかもしれません。

1:8しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。 1:9私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。

さて、ここでパウロは人を呪っているのでしょうか?ローマ12:14でははっきりと「呪ってはいけません」と書いていますが。それから、「そのような奴らは呪われよ」と言っているのではなく、 「私たちであろうと、天の御使いであろうと」とまず自分を含め、そして天の御使いも含めます。これは、ガラテヤに入り込んだ扇動者たちが語っていたことではないでしょうか?「パウロは呪われている、律法を守ることをないがしろにするようなことを伝えているから」などと言っていたのかもしれません。それを利用して「ああ、もし俺が偽の福音を伝えているなら、呪われて当然だ。でもそれは君たちにも言えるそ」と言っているかもしれません。

僕もツイッターで原理主義者にこの箇所を投げつけられたことがあります。でも立ち止まって考えてみてほしい。自分が正しい福音を語り、自分がこの箇所を投げつけようと思っている人が偽の福音を語っているとなぜ分かるのでしょうか?逆の可能性はないのか?そもそも聖書はそんな人たちを呪うようなことを言っているのか?いや、「呪ってはいけません」なのです。

1:10いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。

またまた「人ではなく神」が出てきます。ガラテヤ書の一つのテーマと言えるかもしれません。

1:11兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。 1:12私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

ここもです。「イエス・キリストの啓示」とは何でしょうか。それは、当然ダマスコの道で復活のイエスの出会った経験です。パウロが書いているすべてのこと、パウロが信じている福音や神についての理解は、全部ここがスタート地点です。それを理解しながらパウロの書簡を読まないといけないでしょう。

1:13以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あなたがたがすでに聞いているところです。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。

ここからパウロは時系列を語ります。なぜそんなことをするのか?何が偽の福音で、何が真の福音かを単刀直入に言えばいいのに。でもガラテヤの教会では既にパウロはストレートに福音を語り続けているでしょう。ローマ書では初めから理論を組み立てて語っていますが、ここでは別の戦略として、自分がイエスに出会って帰られてからの働きを語ります。自分が何の為に生きてきたか、そして自分のことを悪く言っている人達、またそれと複雑に関わり合っているペテロやヤコブなどエルサレムの教会の指導者たちとの関係も説明します。自分が神から受けた福音を忠実に語っていると説得するためでしょう。

ここでは、ユダヤ教の中に居た自分と、イエスに出会ってからの自分とのコントラストをつけることで、パウロの語る福音と、扇動者たちの教えにコントラストを付けています。「以前は暴力的で迫害をした」――ということは今はしていませんし、そのようなことを認めないという立場です。ではパウロが論駁している扇動者たちはどうでしょう?彼らが語っている福音の中に、暴力は迫害に至る要素があるかもしれません。

1:14また私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。

パウロはピリピ書などでも律法の行いにおいて自分は完全だったと豪語していますが(それは虚しいものだとも同時に言っている)、ここでもパウロが優秀なユダヤ教徒だったことが分かります。彼はガマリエルという人物の門下でした。つまり、パリサイ派です。パリサイ派にも色々あり、例えばガマリエルの祖父のヒレルはとても革新的で律法を一字一句字義的に捉えず、その意図を汲みとって応用するような解釈をしていました。いわゆる「リベラル」でした。しかし孫のガマリエルはかなり保守的・原理主義的なユダヤ教を説きました。

ここで「熱心」という言葉が使われていますが、ユダヤ人には「熱心」と言えば旧約聖書の有名なモデルがいます――ピネハスという人物です。彼は、イスラエルが神から下された伝染病で苦しんでいるときに、テントの中にいたイスラエル人とミデヤン人のカップルを槍で突き殺します。それで病気が止み、ピネハスは神から永遠の祭司として祝福されます。この話は民数記25章に出てきますが、詩篇106:31では、彼の行いが「義と認められた」とあるのです(後に、ピネハスに対して、旧約聖書の中でもう一人「義と認められた」アブラハムを信仰のモデルとして登場し、イエスキリストに繋げます)。

ユダヤ人は長年異国人の圧政に苦しんできました。そして支配者がギリシャ人に変わってから。ギリシャ人はユダヤ人が大切にしていた神殿を冒涜するような酷い扱いをしました。それに立ち上がり、独立戦争に勝ってユダヤ人たちは2世紀から1世紀にかけて少しの間自治を取り戻したのですが、その戦いの間も、イスラエルの土地を汚す異邦人を追い払おうというナショナリズム的な感情と共に、このピネハスの行為が賛美され、「熱心」の象徴として語られていたのです。

パウロは、以前の自分はそうだったと言っているのは、このピネハスという人物が背景にあるのです。新約のテキストには出てきませんし、教会でそう教えられることもありませんが、これを理解するとパウロの律法や聖書に対するアプローチ、そしてパウロが語ろうとしている福音がまた新しい視点で見えてきます。

問題ーーパウロはピネハスの行動を肯定しているでしょうか?聖さを守るために人を殺すことを肯定しているでしょうか?パウロに出会って下さったイエスは肯定するでしょうか?これは聖書観にも関わることですが、キリスト者としての生き方にも大きく関わります。

1:15けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、 1:16異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、人には相談せず、 1:17先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。

パウロは神が自分を生まれた時から選び分けたと考えているようですね。そしてダマスコへの道で神から啓示が与えられた時、誰も相談せずにアラビヤに行ったんですね!使徒行伝からは解りませんが、ここではパウロが改心してから奉仕するまで3年のギャップがあり、アラビヤとダマスコで過ごしていますが、何をしていたのでしょう?アラビヤにはモーセが律法を与えられたと言われるシナイ山もありますね・・・。ともかく、ダマスコの道での出来事があまりにもショックだった・・・自分が今まで読んでいた聖書の読み方が完全に誤っていた、ユダヤ教の生き方、聖さのために人を殺すのが神の御心と完全に反していたことに気付いたのでしょう。でもずっとエリートとして来たパウロは、それを消化するのに3年かかったのかも知れませんね。

1:18それから三年後に、私はケパをたずねてエルサレムに上り、彼のもとに十五日間滞在しました。 1:19しかし、主の兄弟ヤコブは別として、ほかの使徒にはだれにも会いませんでした。 1:20私があなたがたに書いていることには、神の御前で申しますが、偽りはありません。

ケパはペテロのことですね。パウロはこの書簡の中で「ケパ」と「ペテロ」を混ぜて使っていますが、何か意図はあるのでしょうか。

20節でなぜこのようなことを言うのでしょうか?「パウロはエルサレムで自分の縄張りを築いている、彼の恵みばかりを強調するヤワな福音で大勢を巻き込んでいる」などと言われているからかもしれません。だから、ペテロと15日間滞在し、ヤコブともあったが、それ以外は誰とも会わなかったとはっきりさせているのかもしれません。この15日間ペテロやヤコブと何を話したのかは非常に気になります・・・。

1:21それから、私はシリヤおよびキリキヤの地方に行きました。 1:22しかし、キリストにあるユダヤの諸教会には顔を知られていませんでした。 1:23けれども、「以前私たちを迫害した者が、そのとき滅ぼそうとした信仰を今は宣べ伝えている。」と聞いてだけはいたので、 1:24彼らは私のことで神をあがめていました。

22説の「しかし」は解せないですね。原文にはないし文脈の流れにも合わない。「そして」でも合うし「なぜなら」でも合うし、何もなくても通る。まあ、神学的な要素はそこまでないが、少し気になります。

まあ当時はテレビもなかったので有名でも顔を皆知っている、ということはなかったでしょうね。でも教会の人はパウロのことは知っていて、彼が改心し、イエスを宣べ伝えていることは励ましだったし嬉しかったのでしょう。

とりあえず今日はここまで!1章終了です。また2章近々載せたいと思います。どんどん深まっていき、イエスの福音、パウロが伝えた福音の核心に近付いていっていると思います。

チャーオ!