パウロ,  釈義

学び―ガラテヤ2章

前回はガラテヤ1章を、僕なりの説明をつけながら読みました。お読みいただいた方は、今まで気付かなかった、知らなかったという視点もあったかもしれません。何度も言いますが、パウロが書く手紙には、特定の目的があり、対処している問題があります。ガラテヤの教会には、パウロが相当懸念している、パウロを酷く怒らせている問題があるのです。

1章からはそれが垣間見えたかもしれませんが、2章ではその問題の核心に迫っていきます。ではテキストを読んでいきましょう。

2:1それから十四年たって、私は、バルナバといっしょに、テトスも連れて、再びエルサレムに上りました。

アラビヤとダマスコで3年間過ごした後、エルサレムに半月ばかり滞在し、その後パウロはアンテオケの教会に属します。そこからバルナバらと共に異邦人に福音を伝えるために宣教旅行を繰り返しました。再びエルサレムに上ったのは14年後です。その時に、テトスも連れていきます。ここからパウロが語ることは、ガラテヤの教会で問題を起こしている扇動者が語っていることと密接に関わっています。それはどんな内容だったか、徐々に明らかになっていくわけです。

2:2それは啓示によって上ったのです。そして、異邦人の間で私の宣べている福音を、人々の前に示し、おもだった人たちには個人的にそうしました。それは、私が力を尽くしていま走っていること、またすでに走ったことが、むだにならないためでした。

どのような啓示だったかは定かではありません。パウロはエルサレムで、「おもだった人たち」に、自分が伝えている福音について説明します。「おもだった人たち」は、「リーダーと見られていた人たち」というニュアンスで、パウロは彼らが指導者であることなどどうでもいいと思っています。これは後でも出てきます。それでも、パウロは、「無駄にならないため」に彼らに自分の福音宣教を説明します。自分なりにエルサレム教会とも一致を図ったのでしょう。パウロはエルサレムのリーダーたちに媚びるつもりは全くないでしょうが、パウロが苦しみながら築いた教会が偽の福音によって邪魔されることがないように、パウロが理解していた福音をエルサレムでもきちんと語り納得してもらおうとしたのでしょう。その福音も明らかになっていきます。

2:3しかし、私といっしょにいたテトスでさえ、ギリシヤ人であったのに、割礼を強いられませんでした。 2:4実は、忍び込んだにせ兄弟たちがいたので、強いられる恐れがあったのです。彼らは私たちを奴隷に引き落とそうとして、キリスト・イエスにあって私たちの持つ自由をうかがうために忍び込んでいたのです。

さあ、出ました!「割礼」という言葉が初めて出てきました。異邦人に割礼を強いるような教えが出回っていたようです。使徒の働き15章を読めば、より詳しく書かれています。つまり、ある一部の人は、割礼を受けてモーセの律法を守らないと真のクリスチャンにはなれない、と言っていたのです。

2:5私たちは彼らに一時も譲歩しませんでした。それは福音の真理があなたがたの間で常に保たれるためです。

その扇動者たち、割礼派の人たちに、一時も譲歩しなかったとパウロは言っています。それは、福音の真理が保たれるため・・・「お前たちのために戦ったんだよ!」とパウロは言っています。その人たちが律法から、そのようなしがらみから自由になり、ただ神の愛の中で交われるために、それを反対する声をわざわざエルサレムまで行って、本当はどうでもいいと思っている使徒たちに取り入って、反対する声を黙らせた・・・なのになぜまたそんな律法主義に傾いているのか?パウロの怒りの根源がどんどん露になっていきます。

2:6そして、おもだった者と見られていた人たちからは、――彼らがどれほどの人たちであるにしても、私には問題ではありません。神は人を分け隔てなさいません。――そのおもだった人たちは、私に対して、何もつけ加えることをしませんでした。

使徒15章では、使徒ペテロがパウロの肩をもって他の全会を説得し、みんな静かになったようです。それからヤコブも同調する内容のことを言います。ここでも、パウロはもっとはっきり言いますね。「おもだった人たち」なんか私には関係ない、と。イエスの一番弟子であろうと、イエスの弟であろうと、「主に愛された弟子」であろうと(それが使徒ヨハネのことだったかは異論あり)、神から啓示を受けて、生まれる前から召された自分は、彼らにゴマする必要などない、と堂々と言い続けます。

2:7それどころか、ペテロが割礼を受けた者への福音をゆだねられているように、私が割礼を受けない者への福音をゆだねられていることを理解してくれました。 2:8ペテロにみわざをなして、割礼を受けた者への使徒となさった方が、私にもみわざをなして、異邦人への使徒としてくださったのです。

エルサレムからおそらく割礼派の人たちがガラテヤの教会に行って、ペテロ達の権威を借りて彼らの教えを言い広めていたのでしょう。しかしエルサレムのリーダーたちは、パウロの福音を承認しています。パウロ自身は別にそのような承認など必要としていませんが、その扇動者達の言っていることに何の根拠もないことを示しているのだと思われます。

2:9そして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し伸べました。それは、私たちが異邦人のところへ行き、彼らが割礼を受けた人々のところへ行くためです。 2:10ただ私たちが貧しい人たちをいつも顧みるようにとのことでしたが、そのことなら私も大いに努めて来たところです。

ある聖書学者たちは、ペテロやヤコブがこれらの「ヘブライスト」(割礼派)たちを送りこんでいたと主張します。彼らがパウロの宣教の邪魔をし、割礼をはじめ律法を守ることを義務づけることを異邦人にも伝えようとしていたというのです(パウロが「偽教師」などと呼んでいるのはヤコブのことで、ヤコブがヤコブの手紙で批判しているのはパウロだという説もあります)。でも僕はそうは思いません。この後にパウロがペテロと激しくぶつかりますが、ペテロやヤコブらは割礼派の教えを積極的に広めていたとは思えません。ペテロ自身神からの啓示によって、コルネリオの家で、異邦人にも聖霊が下るのを目の当たりにし、「神が清めたものを清くないと言ってはいけない」と諭されています。しかし、積極的に認めてはいなくても、ヘブライスト達の影響を受けて妥協してしまっていた部分はあったでしょう。パウロは、異邦人信者のために、その妥協と戦うのです。彼らのために福音を守り通すのに使徒たちとの関係性さえ犠牲にすることを厭わない覚悟です。

2:11ところが、ケパがアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。 2:12なぜなら、彼は、ある人々がヤコブのところから来る前は異邦人といっしょに食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼派の人々を恐れて、だんだんと異邦人から身を引き、離れて行ったからです。 2:13そして、ほかのユダヤ人たちも、彼といっしょに本心を偽った行動をとり、バルナバまでもその偽りの行動に引き込まれてしまいました。

律法的なことを語ってクリスチャンの自由を奪っている人や教会の行いを公開で非難すると、「愛がない」などとの批判をよく受けます。「パウロさん、そりゃ愛がないんじゃないですか?マタイ18を読みましたか?兄弟を批判するときはまず二人だけで、それからもう一人仲間を連れて、それでも駄目だったら教会の長老たちなどと順番がありますよ・・・」などという人がいるでしょうか?

いや!福音の真理がかかっているときは遠慮しません!神の権威を振りかざして語る人たちは、真の福音を伝えることが求められています。それからずれた時、自由を得たはずの人を再び奴隷へと引きずり降ろそうとしている人がいる時、面と向って、その人に恥をかかせることを承知で、真理をみんなの前で語る必要がある時もあるのです。パウロは自分の使徒としての威信や評判など一切気にしません。イエスと共に歩んだ弟子にも遠慮しません。パウロの異邦人信者への深い愛、すべてを捨てる覚悟に現れた愛がここに見られます。

ペテロは、エルサレムではパウロの話を聞いてパウロのための応援演説をし、そしてアンテオケに来てからもパウロが語った福音、ユダヤ人もギリシャ人も分け隔てなくすべてを受け入れる福音に則って行動していました。ペテロとパウロの間に福音の見解に大きな違いがあったわけではありません。しかし、ペテロは割礼派に妥協してしまったのです。割礼派はヤコブのもとから送られたとあります。使徒15章の、エルサレム会議のまとめでは、諸教会に送る手紙を書きますが、「どんな重荷も負わせないことを決めました」と言いながら「像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けること」と付け加えています(15:28-29)。ヤコブはまだ完全に律法主義から脱却できていないのかもしれませんし、もしかしたらヤコブもパウロとペテロに同意しながら彼らの影響を抑えることができていなかっただけかもしれません。

いずれにせよ、やはりイエスの一番弟子だったペテロの行動は、周りに大きな影響を与えます。バルナバでさえ彼の偽善行為に流されてしまいます。主の聖餐をギリシャ人とユダヤ人で分けて食べるのは、キリストの体でしょうか?これにはパウロもついに切れたわけです。

2:14しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。「あなたは、自分がユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。

ここでパウロの言葉を閉じる説もありますし、2:21までとする説もあります。ギリシャ語の本文には鍵括弧がないので分りません。15節は、ユダヤ人もギリシャ人もいる教会に対して語るのは不自然なので、ペテロへの言葉のままだと僕は考えます。でもペテロにそんなに長々説教をしていたかは微妙ですから、どこか途中で「ペテロへ」から「ガラテヤ人へ」に切り替わっているかもしれません。でもパウロやペテロが長い説教をしなかったわけでもありませんね(笑)。

これは、末端の聖書解釈に関する意見の相違ではありません!「福音の真理」です。私たちは福音の真理を守るためにこれだけ熱くなっているでしょうか?福音の真理がかかっているのに「ナイスガイ」で居続けることはパウロにはできないんです。

ペテロは律法を一字一句守って過ごしてはおらず、キリストにある自由の中に生きていましたが、ヘブライスト達を恐れて、一時期ユダヤ教徒に戻ってしまいます。そしてそれに他の信者も引き込んでしまったのです。今の教会でも、自分は自由奔放に暮らしているのに信者に対してあれこれ制限をする牧師もいますが、一番タチが悪いですね。ぜひパウロの叱責を体験してほしいです!

2:15私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。

「異邦人のような罪人」はパウロの言葉ではないと僕は考えます。パウロはそのような異邦人に対する偏見から解放されていますから。ここにあって、そうやって異邦人を見下しような言い方をするでしょうか?これは、ペテロや他のヘブライスト達の表現を借りて、皮肉で用いているに違いありません。異邦人だから罪人、ユダヤ人なら罪人ではない、みたいな考え方はユダヤ人の中には蔓延していましたが、パウロの教えは全部それに逆行するものです。

2:16しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。

「キリストを信じる信仰」は、「キリストの信仰・忠実さ」とも訳せます。いずれにせよ「信じる信仰」のように、「信」がダブるのは誤解を生みます。少なくとも、直訳ではなく意訳だと認識すべきです。ギリシャ語では「ピステオス(信仰)・クリストゥー(キリスト的)」です。この「キリスト的」をキリスト御自身の「信仰(忠実さ)」なのか、「キリストに置く我々の信仰」なのか、という議論は今でも続いています。キリストは神御自身であるため、「信仰」という言葉は不適切で、「忠実さ」などと訳す聖書学者もいます。英語でも “The faithfulness of Christ”とされます。こっちだ、と確定的に言うことは難しいのでここでは決め付けずに読むことにします。文法的に言うと、「キリストの信仰」の方が自然です。しかし、後に「信仰をもって聞いたから」と、ガラテヤの信者たちの信仰にも触れているので、「キリストに対する信仰」=「キリストを信じる信仰」と捉えるのも文脈と合致します。

いずれにせよ、律法の行いではなく、信仰によって「義認される」ことをパウロは強く説いています。何をするかではなく、イエスキリストという人物に信仰を置くことで我々は義認されるのです。つまり、神に「正しい」とされるのです。

2:17しかし、もし私たちが、キリストにあって義と認められようとすることによって、罪人となってしまうのなら、キリストは罪の助成者なのでしょうか。そんなことは絶対にありえないことです。

ここの解釈は少し難しいです。ここでは、義と認められようとするとあります。これを読んで、「キリストに認めてもらうために頑張る」と解釈し、「そのように頑張ってもそれは律法主義で人間を罪人にするだけだから、キリストが罪の助成者になってしまう」という解釈もできなくはないです。でも、単に「キリストにあっての義認を求める」と取ることもできます。キリスト御自身は「神の義を求めなさい」と言っているわけですから、この表現は悪い行為を指しているとは思えません。

律法は人を罪に定めるということはパウロが一貫して論じています。そしてキリストは我々を義として下さるのです。これは対極にあります:「律法=罪に定める」、「キリスト=義と認める」。ですから、キリストにある義認を求めながら、自分たちを罪人扱いする律法を同時に求めるようなことは、キリストを「罪の助成者」にしてしまう行為で、断じてあり得ない、とパウロは言っているのではないでしょうか。

2:18けれども、もし私が前に打ちこわしたものをもう一度建てるなら、私は自分自身を違反者にしてしまうのです。2:19しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。

パウロは1章で、自分が以前ユダヤ教に熱心だった時について語りました。それがイエスキリストの啓示によって壊されたのです。それを再び立て上げるようなことはパウロにはできません。そして他の信徒、使徒たちも同じではないか、とパウロは言っていると思います。みんな律法によって、死んだのであり、それは神にあって生きるためです。

2:20私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。 2:21私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」

「私はキリストとともに十字架につけられた」何と大胆な宣言でしょうか!キリストはなぜ十字架につけられたのでしょうか?キリストは律法の下で罪人、神への冒涜者として定められ、殺されました。つまり、律法そのものが正しくない、正しく裁く力を持っていないことを証明したのです。パウロも律法に「熱心に」従っていたがゆえに、キリストの弟子を迫害し、殺害まで是認していたのです。律法は殺すのです。そして人を生かすのは、神なのです。

そのことを示すためにキリストは死なれました。「私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子」ーーそれだけイエスは愛して下さいました。律法は正しくない(義認できない)ことを示すために、命を投げ出されたのです。そのことによって、パウロも律法の下に生きることの過ちに気づいたからこそ、今の自分があると知っているのです。だから、もはや彼ではなく、キリストが自分のうちに生きているのだ、と言えるわけです。

この手紙の後半にも出てきますが、パウロも律法の無効と十字架のキリストを伝えたからこそ迫害されたのです。ここの訳は「この世に生きているのは」となっていますが、正確には「肉で生きているのは」です。パウロは肉体として生きていますが、律法に魂を売った古いパウロ(サウロ)は死んだのです。そして、律法から、宗教的暴力から、「清い・清くない」という線引きからすべての人を解放する為にイエスは十字架で死なれ、それらのことが誤りであり、無効であることをゴルゴタの丘から示されました。パウロも、律法の生き方を捨てて、そのキリストの福音を伝えることに身を捧げることにより、キリストと共に十字架にかかる、キリストの言葉を借りれば「十字架を背負って生きる」(マタイ16:24)ことを選んだのです。

是非ピリピ3章を読んでください。全く同じことを言っています。自分が「熱心」によって教会を迫害していたところからキリストの愛によって変えられ、キリストの苦しみにあずかるものとなったことを熱く書いています。

「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」(ピリピ3:8-11)

これがパウロの福音です。それに少しでも律法主義、宗教、「この人たちは清いがこの人たちは清くない」などの排他主義、ナショナリズムが入ってしまうと、自由が失われ、奴隷の状態に戻ってしまうことを知っていたのです。だからそこまでパウロは怒ったのです。

パウロは律法に関しては非の打ちどころがなかったと自分で言っていますが、だからこそキリストの十字架の生き方から最も遠い存在だったと思っているのでしょう。別の箇所では「罪人のかしら」と自分のことを言っています。そんな自分に出会って下さったイエス様。自分を宣教の為に選んでくださったイエス様。その愛と恵みは感謝してもしきれないのです。私たちも同じ感謝に溢れているでしょうか?自分たちが罪人だと気付いているでしょうか?それは何も自分が生まれた時から罪にまみれていてどうしようもない存在だということではありません。自分の力に頼ってしまい、イエスの十字架を忘れて律法主義に走ってしまうということです。そんな私たちのために、イエス様は十字架で死なれ、そして私たちにも日々現れて下さるのです。

パウロは、自分が律法の呪いから解放されるために十字架で死なれたキリストに一生を捧げて歩みます。そして、他のユダヤ人も異邦人も、律法とそこから来る暴力的、排他的な生き方から解放されるように命を懸けて戦います。そのような人たちの命を懸けた信仰の戦いによって、私たちにも福音が届けられてきたのです。私たちは、その福音の中に歩んでいるでしょうか?

2章の探究はここで終わりにします。なんか、パウロという男の熱さが見えてきたような気がしませんか?そしてパウロが命を賭けた福音、キリストの一番弟子に大衆の前で恥をかかせてまで守ろうとして福音の偉大さ、素晴らしさが見えてきませんか?

次回、3章を続けて読んでいきましょう!!