パウロ,  釈義

学び―ガラテヤ3章

1章、2章と来たので、少し間が空きましたが3章に入りましょう。1-2章からは、パウロが何に対して怒っているのか、どのような「偽の福音」がガラテヤ教会に入ってきたのかが少しずつ明らかになってきました。何かすごい斬新な異端が入ってきたのではなく、ずっと教会の中で問題になっていることが蒸し返された感じですね。キリストにある者たちが、律法を捨てることができるか、この課題がずっと付きまとっていたのです。それを理解し、それを福音として語っていたパウロ、理解はしていたが完全に脱却できず影響を受けていてペテロやヤコブ、そして理解できずに福音に律法を混ぜていたヘブライスト達、さまざまな方面から引っ張られていたガラテヤの教会・・・この構図ができてきたと思います。

3:1ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。

2章でも明らかにしたように、イエスの十字架は律法そのものが正しくないことを示しました。だってキリストは罪がなかったのに律法によって罪人とされたのですから。律法が無効だということがはっきり示されたのです。だから迷う必要なんてないのに・・・パウロの悲痛の叫びが手紙から読み取れます。

3:2ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。 3:3あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。

2章まででは、律法の行いと信仰による義認に関連して「御霊」は出てきませんでした。ここで初めて登場します。なお、ギリシャ語では「プニューマ」で、単純に「霊」とも訳せます。マタイ5:3などでは「心」と訳されています。ここでパウロが言っているのが聖霊なのか、それとも我々の受けた新しい心なのか。単純に「聖霊」と思いがちですが、決め付けずに読み進めたいです。ともかく、パウロはすべて信仰によるということを強調し続けていますね。3:3は「御霊」より「霊」の方が相応しいと僕は思います。勿論キリストを信じる者に御霊が内住しますが、ここでパウロが言っているのは、「肉」に対しての「霊」だと思います。例えばローマ8:10「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。」他にもローマ8では、「御霊」となっているところを「霊」としてもいいんじゃないか、と思うところがあります。ここは難しいですね、もっと読み比べが必要かもしれません。

3:4あなたがたがあれほどのことを経験したのは、むだだったのでしょうか。万が一にもそんなことはないでしょうが。 3:5とすれば、あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行なわれた方は、あなたがたが律法を行なったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか。

ここも同じよう展開でしょうか。ただしここで言う「律法」は、モーセの律法をすべて守ると言うことではなく、この書簡と1世紀の初代教会の文脈から考慮すると、1)割礼、2)安息日、3)コシェル(ユダヤ教の食事)の三つを主に指していたと推測されます。モーセの律法や旧約聖書に出てくるあらゆる戒めをすべて守ることで義とされる、なんて考えはそもそもユダヤ教には存在したこともありません。これからアブラハムが登場しますが、彼が義とされたのも割礼の前で、後ではないということをローマ4章で述べています。ユダヤ人の律法に対する考え方は、神に憐れんでもらうために一部の人が民族全体のとりなしとして自分を聖別し、律法を守る生き方をするというものでした。律法を守ることで救われるとか、天国に行けるという考えは全くなかったのです。すべての律法を守ることなど無理ですし、時代が変わって異邦人の支配下にいたが故に守れないものもあったのです。だからイエスの時代には「どの戒めが最も大切か」というような議論が起きていたのです。

ともかく、ここで「信仰」と対立する形で挙げられている「律法」は、613などと言われるモーセ律法のすべての戒めではなく、ユダヤ人を他の民族と決定的に区別していた割礼、安息日、そして食習慣をさしていると考えられます。

3:6アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。 3:7ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。

1章の考察でピネハスの話をしましたが、旧約聖書の中で「義と認められた」と語られているのはピネハスとアブラハムだけです。ピネハスは異邦人とユダヤ人のカップルを刺し殺して義と認められましたが、アブラハムは神を信じただけで義と認められたのです。当時は、ピネハス的な「熱心」がユダヤで流行っていたのです。後にユダヤ戦争の中心的な存在となった「熱心党」もこのころは盛んに活動していました。彼らは、自分たちと違う人たちを排除することを掲げていたのです。

でも、パウロによれば、アブラハムこそユダヤ人の父であり、アブラハムのように神を信じる信仰を持つものは皆その子孫なのです。

3:8聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。

この一節は非常に面白いです。創世記12:3に見られるこの一文を、パウロは「福音」と呼んでいるのです!私たちが「福音」という言葉を聞くときに、これを思い浮かべるでしょうか?創世記のテキストには、異邦人も信仰によって義とされるということは書かれていませんが、パウロはそのように捉えているのです!

3:9そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。 3:10というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」

ここで話題になっている「律法の行い」がモーセ律法にあるすべての戒律ではないということを既に述べましたが、パウロはこの点をここで突いているのです!だって彼らが異邦人に守らせようとしている「律法の行い」なんて、本当に書かれている律法の行いのごく一部に過ぎないからです。だから自分たちで呪いを招いています。律法には色々な事が書かれているのに、自分たちの時代や環境に応じて「これとこれとこれが重要」と人間的な思いで決めるだけならまだしも、それを他の人に強制していたのです。

自分と同じことを信じないクリスチャンを「偽クリスチャン」「自称クリスチャン」として否定するクリスチャンも、同じように呪いのもとにあるのかもしれません。自分の考え・解釈でしかないのに、それを絶対的な基準にして他人を裁くことは、当時もあったし、今もキリスト教の中でありますね。しかもそれらの項目を正統的なクリスチャン信仰の必須事項だと認めることを「信仰」と呼んでいる人もいて更に酷いです。聖書が言う「信仰」は、神への信頼と従順です。教理を認めることではありません。

自分の解釈に沿わないクリスチャンを否定する人たちは、パウロが反駁している律法主義者、割礼派の人たちと同じ呪いの下にあります。同性愛者を罪人として扱ったり、婚前交渉を断罪したり、酒やタバコを断罪する人、日曜日に(或いは土曜日に!)礼拝に出ることを必須だと考える人も同じです。そのような人たちは律法の下にいて、信仰に歩んでいません。そして律法の下にいながら、律法をすべて守っている訳ではないので、彼らは呪われているのです。でも律法的な考えを捨ててキリストにある信仰を受け取るなら、もう律法の下にはいませんので、その呪いからも解放されるのです。

3:11ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる。」のだからです。 3:12しかし律法は、「信仰による。」のではありません。「律法を行なう者はこの律法によって生きる。」のです。

「律法」と「信仰」の対立構造はまだまだ続きます。律法によって義とされることもないし、律法の下にいながら信仰によって生きることもできない、つまり、信仰があれば、律法は何の役にも立たないと言ってしまってもいいかと思います。

3:13キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。

パウロは、本来の引用本から「神」を省いています。つまり、キリストは神によって呪われたのではないのです。人間が律法の呪いをキリストに覆い被せて殺しました。そもそも律法の呪いそのものは、神から与えられたものでもないということは、この手紙の他の部分のパウロの言葉からも明らかだと思います。

3:14このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

キリストの十字架で呪われた死を遂げた結果、それによって異邦人へアブラハムの祝福が及び、その結果私たちが御霊を受ける?このロジックはちょっと理解しにくいですね・・・「私たち」とはユダヤ人のこと、あるいはユダヤ人と異邦人を含む教会のことでしょうが、アブラハムの祝福が異邦人に及ぶことが約束の御霊を受けるための前提条件かのように書かれていますが、原語を見ると「結果として」訳せるような言葉はないので、「及ぶためであり、私たちも信仰によって・・・」程度の理解でいいかもしれないです。無理矢理因果関係を立てる必要はないと思います。キリストイエスが異邦人に伝えられ、すべての人が約束の御霊を受けることができたのです。

使徒2:39で、ついさっきパウロのボコボコにされたペテロがペンテコステの日にこう言っています。「この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」そう、御霊はすべての人に与えられるのです!

3:15兄弟たち。人間のばあいにたとえてみましょう。人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません。

今の時代の契約書だとそれが無効になる条件があったり、新たに追加するこもあるかもしれませんが、とりあえずパウロの社会の「契約」の理解ではないということですね。

3:16ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。

創世記のこの箇所のの「子孫」は文脈から言うと明らかにイサクを指していますが、パウロはこれをキリストに結び付けています。少し強引ですね・・・でもパウロは、ピネハス的な「義認」に対して、単純に神を信頼したアブラハムの義認を「型」として諸教会を説得しようとしているのです。アブラハムの生き方こをがキリストの生き方であり、我々が形成する信仰コミュニティの在り方だと聖書を使って証明しようとしているのです。

3:17私の言おうとすることはこうです。先に神によって結ばれた契約は、その後四百三十年たってできた律法によって取り消されたり、その約束が無効とされたりすることがないということです。 3:18なぜなら、相続がもし律法によるのなら、もはや約束によるのではないからです。ところが、神は約束を通してアブラハムに相続の恵みを下さったのです。

ガラテヤや他の教会を扇動していた人たちは、モーセの律法の固執していました。そしてモーセの律法を守ることで神に正しいと認められると考えていました。でも、その430年前に全ての人が「義と認められる」という約束が既にアブラハムを通して与えられていました。そしてそれは、その型となったアブラハムと同様、信仰によるものです。だらか、430年後にモーセの律法が与えられたからといって、その約束が無効になることはない、とパウロは言っているのです。

ここで「律法」と「信仰」を対立させて描いています。律法によって相続するなら、それは約束によるのではない、というのがパウロの論です。

3:19では、律法とは何でしょうか。それは約束をお受けになった、この子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたのです。 3:20仲介者は一方だけに属するものではありません。しかし約束を賜わる神は唯一者です。

ここは非常に面白いです。この箇所と誠実に向かい合えば「聖書は一字一句誤りがない」という原理主義的な考えは崩れ去るはずです。原理主義で有名なジョン・マッカーサー師の註解を読んだことがありますが、「この箇所は難解だ」と言っています。パウロは「律法は神から与えられたのではない」と言っているのを受け入れられないのです。出エジプト20には「御使い」は出てきません。御使いを通して、「仲介者」の手で定められたのです。3:20を読めば「仲介者」=「神」は成り立ちません。

確かに、パウロがここで何を言っているのかは定かではありません。神が御使いを通して律法をモーセに授けてトーラを書かせたとする偽典の「ヨベルの書」の影響を受けている、というのを聞いたことがあります。そこには確かに御使いが出てきますが、神が律法を与えたことには異を唱えていません。パウロは「仲介者は双方に属すが、神は唯一の存在なのでそうではない」と言っていますので、律法は神によって与えられてモノではない、というのは少なくともパウロの考えとして成り立ちます。

3:21とすると、律法は神の約束に反するのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしも、与えられた律法がいのちを与えることのできるものであったなら、義は確かに律法によるものだったでしょう。 3:22しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。

ここで「反する」と訳されているのはギリシャ語のkata(カタ)です。多くの場合は「~による」と訳されます。じゃあここも「律法は神の約束によるのでしょうか?」とも訳せるのでは?と思って色々な註解書や記事を探しましたが、やはりどの翻訳も「反する」的な意味を採用しています。僕は今でもここkataをaccording to(~によって)と訳すのも全然アリな気がしますが、専門家たちのよる裏付けがないので、「反する」との理解を維持したまま進めます。

また、ローマ3章では、nomos(ノモス)が数カ所で「律法」ではなく「原理」と訳されています。モーセが与えられたとされる特定の律法ではなく、あらゆる「原理」「摂理」などの意味があるのでしょう。そう考えれば、どんな「ノモス」でも神の約束に反する訳ではないのかもしれません。それを踏まえた上で、モーセの律法は命を与えるものではなく、死と呪いと裁きをもたらしたものです。

22節では、律法の話から、「聖書」に移ってしまいます!律法が与えられて以降、イスラエルはその律法に支配された歴史が「旧約聖書」として残されています。「旧約」と言っても、それはクリスチャン独特の表現で。ユダヤ教徒、また当時のユダヤ人にとっては単純に「聖書」です。律法は神から与えられたのではない、とパウロは言います。では聖書はどうでしょう?ここではパウロは聖書が神からのものかどうかは言っていませんが、聖書も、律法と同様に、我々を罪の下に閉じ込める働きがあり、救いや恵みを与えるキリストの十字架とは違うように表現されています。

また、「聖書」と言っても、ここは単数形なので、聖書の一巻、或いは一部分を指しているとも考えられますので、ここは意味としては「律法」とほぼ同一で捉えても問題はないかもしれません。

3:23信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。 3:24こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。。

24節の「養育係」というのは、古代ギリシャ時代に貴族の家庭などで男子を教育するために雇われていた「家庭教師」のようなものでした。優しく面倒を見て育ててくれるなんて、そんな淡いものではありません。非常に厳しく、体罰などは当たり前で、時には「教育」の一環として性的な虐待を加えることもありました。パウロはこの「ペダゴゴス」という、非常に厳しいイメージの人を律法に当てはめていますが、他にも「閉じ込める」「呪い」などの言葉で律法を表現しています。一貫して、律法は良いものではなく、本当に優れた恵みに導くための役割を担っていただけだと考えているようです。

3:25しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。 3:26あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。

養育係によって育てられた富裕層のギリシャ人男子は、やがて自分で家庭を持ち、召使もつき、権力と富を手に入れられるのでしょう。そのことをパウロは比喩として使っているのかも知れません。その権力と富は、その家庭で生まれたがゆえに相続するものです。当時のユダヤ人も、1000年以上も律法という養育係の下で苦しめられましたが、彼らはもともとアブラハムの子孫であり、祝福を約束されていたのです。キリストによる信仰が現れてから、もう律法の下にはおらす、神の子供として義と認められるのです。そしてユダヤ人だけでなく、キリスト・イエスの信仰、或いはキリスト・イエスに対する信仰によって、神の子供と呼ばれるのです。

3:27バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。 3:28ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。 3:29もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

28節は、初代教会でバプテスマを授ける際に使われていた宣言文だと言われています。バプテスマによって、我々は皆一つなのです。ユダヤ人もギリシャ人もない、律法はもう関係ないのです。なぜですか?27節にあるように、皆「キリストをその身に着た」からです。律法によって殺され、しかしその力を打ち破って蘇られた方だからです。

奴隷も自由人もないです。身分によって人を煽てたり見下したりするような文化は教会にはあってはいけません。(牧師を「先生」と呼ぶのもどうかと思います。)すべてを支配する神だった方が、もっとも惨めな姿になり、人に仕え、十字架についてまで人を解放するためにご自身をお捧げになったのに、未だに人間的な部分の何がそんなに偉いのでしょうか?(ピリピ2:5-11も参照)

男も女もありません。これは当時の時代にとって非常に革命的な言葉です。男の方が女よりも絶対的に有利な時代で、女性は男性の所有物と見なされていましたから。26節に戻りますが、「子供」はギリシャ語では実は息子です。でも、27節には「女子」も含まれています。つまり、本来男にしかないはずの相続権が、神の国では男も女も関係なく平等に与えられるのです。

このように、律法の力を無効にするイエスの十字架の死が、性別の垣根まで無くしてくれたのに、未だにセクシャル・マイノリティの方達を差別するクリスチャンがたくさんいることは非常に残念ですね。キリストによって国籍、民族、身分、性別などのあらゆる垣根を壊してくれたのです。それらのアイデンティティや個性が失われる訳ではありません。しかし、神の家族となるにはそれらの線引きは一切ないのです!

ガラテヤ3章はこれで終了です。1、2章では、ガラテヤの教会に入ってしまった偽の福音に影響されてしまった信者たちに対するパウロの怒りと、その理由を行間から読み解きました。2章後半から3章にかけては、パウロが信じて語ってきた真の福音がより鮮明に説明されています。4~6章ではそれが更に深まっていき、クリスチャンとして我々がどのように生きるべきかを考えさせられる非常に貴重な聖書の部分です。

また近々4章をアップします!

シャローム!