社会,  釈義

To stone or not to stone(石を投げるか投げまいか )

「クリスチャン」と名乗る人は、本当にイエス・キリストを信じているのでしょうか?

次の話では、二人の人が同じ律法を根拠に、民衆による石打に遭います。しかし、この二つのストーリーは全く違った結末を迎えます。また、「神」が命じることも、完全に正反対です。

民数記15:32-36
イスラエル人が荒野にいたとき、安息日に、たきぎを集めている男を見つけた。たきぎを集めているのを見つけた者たちは、その者をモーセとアロンおよび全会衆のところに連れて来た。しかし彼をどうすべきか、はっきりと示されていなかったので、その者を監禁しておいた。すると、主はモーセに言われた。「この者は必ず殺されなければならない。全会衆は宿営の外で、彼を石で打ち殺さなければならない。」そこで、主がモーセに命じられたように、全会衆はその者を宿営の外に連れ出し、彼を石で打ち殺した。

ヨハネ8:3-11
すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」 8:11彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」

最初のストーリーでは、創世記の著者は、神が何のはばかりもなく、罪人である他の会衆の人々に、安息日を破った男に対して石を投げるように命じます。しかし、二つ目のストーリーでは、著者は、神であるイエスが、石を投げようとしている民衆が皆罪人であることを見通して「罪のない者から石を投げなさい」と命じ、死罪に値するはずの女性を救います。そして、罪のないはずのイエスも、石を投げなかったことを忘れてはなりません。

さあ、どちらの「神」が正しいのでしょうか?「両方正しい」なんて馬鹿な答えはやめてほしいです。この二つのストーリーのコントラストは明確ですから。イエスは、我々に「父なる神は本当はこのような方なんだよ」と教えに来られたのです。それを素直に受け入れようではありませんか。旧約聖書を書いた人たちは、素晴らしい信仰の勇者だったかもしれませんが、イスラエルという自分たちの国を守るために戦争に明け暮れ、厳しい律法を自分たちに課し、それに「神」を当てはめて理解していたのです。

「旧約聖書の方が正しい」という理解なら、それはそれで構いませんが、それは旧約聖書信仰であり、キリスト教ではありません(ちなみにユダヤ教でもありません)。「両方正しい」というなら、我々は聖書の教えから合理的な判断基準を見出すことが不可能になります。罪人を石打で殺しても良いのかいけないのか。でも、クリスチャン、キリスト教徒であるならば、私たちにはイエス・キリストの啓示が与えられています。それを無視することがないようにしたいです。

罪を犯した者に石を投げることは正しいのか、それとも正しくないのか?しかも罪人である人間が石を投げていいのか、駄目なのか?

僕は、モーセではなく、イエスキリストに従います。皆さんはどうでしょうか?

2件のコメント

  • 伝道者

    こんにちは。私は聖書を学んでいる者ですが、旧約聖書と新約聖書に不整合は無いと考えています。

    理由:

    1.聖書自体が不整合が無いと主張している。
    (自己証言)

    2.旧約聖書はイエスの登場を預言していた。
    (旧約から新約への整合性)

    3.イエスは旧約聖書に誰よりも精通し、深い理解を持ち、その理解を以って父なる神を完全に模倣した。何か新しい宗教を始めたわけではない。
    (新約から旧約への整合性)

    4.旧約聖書には規則が書かれている。新約聖書には規則の背後にある原則が書かれている。それは基礎と応用の関係であり、教えている内容は同じ。子供に教えるのと大人に教えるので、教え手が教え方を適応させる様に、神が教え方を人類の時の進展に合わせて適応させている。
    (内容の調和)

    上記は私の独自の考えではなく、聖句から根拠を引用出来る内容だと考えています。

    コメント失礼致しました。

    • talmid

      コメントありがとうございます。
      それは「聖書に誤りはない」という主張を最初から仮定しての事なので、議論しても平行に終わると思います。言っていることはすべて福音主義神学だけが正しい、という前提なので。もちろん聖句を引用して根拠づけることはできます。でも、整合性が取れない箇所、相反している箇所があることも、聖句で示していますので。でも一応私の意見を書かせていただきます。

      1.聖書は、「聖書」についての主張など行っていません。まだ成立していないものの主張はできないでしょう。ユダヤ教ラビの間でも、旧約聖書の著者は数々の伝承の中からも敢えて複数のものを併記した、矛盾を恐れずに敢えて残す形で編纂した、というのが通常の見解です。矛盾がない、整合性が取れる、としているのは一部のクリスチャンだけですし、矛盾を色々な方法(その方法の用い方にも一貫性はない)を恣意的に用いて「解消」しているにすぎません。
      2.旧約聖書はメシアの登場を預言していますがそれが全部の整合性を約束するものではありません。
      3.イエスが旧約に誰よりも精通していたことは同意しますし父を模倣したのも同意します。てことは、イエスが模倣しなかった旧約の神像は解釈の見直しが必要になるのではないでしょうか?例えば、イエスは罪故に大勢の人(子供も含め)の虐殺を命じる神の姿は模倣していません。
      4.規則、原則など、それは個人の解釈にすぎないので反証のしようがありません。場所によってはそうと捉えられるかもしれませんし、内容が調和している箇所もたくさんあります。だからと言ってすべてに整合性が取れる訳ではないですし、そうすることが求められている訳でもないです。

      以上私なりの簡潔な答えです。