LGBTQ+,  釈義

同性婚大賛成! ~僕がクリスチャンでありながら同性婚を支持する理由

まず、最も基本的理由としては、聖書は同性婚を禁じていないからです!教会が教えていることを盲目に信じるのではなく、しっかり聖書を読んで時代背景を考慮して検証すれば簡単に分かることです。

英語圏では教会を2分するほど深い神学的な議論がなされていて、同性婚には反対で同性愛を罪と思っている人たちでも、反対の立場のクリスチャンも存在することぐらいは認められていますが、日本の教会ではほとんど議論になりません。

同性婚への言及は旧約、新約を合わせると聖書には6箇所出てきます。

1.まずは創世記19章。神がソドムを滅ぼされる前の夜のことです。ソドムの人たちはアブラハムとロトを訪れた天使を集団で強姦しようとします。これらの悪にたまりかねた神は炎と硫黄をもってソドムとゴモラの町を滅ぼされます。しかしこれは彼らが同性愛者だったからではありません。当時の風習で、よそ者を辱めるために集団で犯すことがありました。普段は異性愛も営んでいる人たちによる野蛮な行為として行われており、セクシュアリティとしての同性愛者と同一視することはできません。さらにこの話からモラルを学ぶのにも無理があります。ロトは訪問者を守るために自分の娘をソドムの人たちに差し出したのです。ロトは「義なる人」と言われていますが、現代の社会においてレイプされるために娘を差し出すなど言語道断です。なのでこの話をもって同性愛が罪であるかどうかを論じることは不可能です。さらにエゼキエル16章49節には「見よ、あなたの妹ソドムの罪はこれである。すなわち彼女と、その娘たちは高ぶり、食物に飽き、安泰に暮していたが、彼らは、乏しい者と貧しい者を助けなかった。」と書いています。聖書の記述をそのまま解釈するにしても、同性愛が主な原因で滅ぼされた訳ではなかったようです。

2.次にレビ記18章22節。ここにははっきり男と男が寝るのは罪だと書いてありますが、ほとんどのクリスチャンなら既に知っての通り、レビ記を含む律法はキリストの十字架によって成就されており、これらの戒律が今を生きる我々の生活当てはまることはありません。使徒の働きでイエスの兄弟ヤコブ中心に49年にエルサレムで行われた会議でも、旧約の律法を守ることを異邦人に強要すべきではない、との結論が出ています。

3.レビ記20章13節、同上。さらにここでは同性関係には死罪が明記されているが、モーセの律法には両親を罵ることや安息日に働くことも死刑とされていました。それらのユダヤ教の風習を今も踏襲しようとするクリスチャンはまずいません。

4.新約に移ってローマ1章。26節と27節に女性同士、そして男性同士の関係を断罪していますが、18節から文脈に当てはめて読むと、ここでは神から離れて偶像礼拝と自分の欲望の追求に走った人間の姿が描かれています。その中での行為であって、ある聖書学者はコリント(パウロがローマ人への手紙を書いたと思われる町)でのギリシャの神々への礼拝として行われていた乱交を指していた、という人もいます。そうでなかったとしても、この箇所の行為を、2人で愛し合って家族として生涯を分かち合おうとしている同性カップルの関係と同等で論じるのは理論が飛躍しすぎです。キリストが「地上に宝を蓄えてはいけません」といったことで、預金口座を銀行に設けてはならないと考えるクリスチャンがいますか?「悪い者に歯向かってはならない」「右の頬を打たれたら左の頬も向けなさい」とイエスがいったので、敵が攻撃しても自分の国を一切守ってはいけない、ということになりますか?普通に考えれば誰でも分かることです。

さらに、ここをよく読むと、神は彼らを罪の故にその欲望に彼らを「欲望のままに汚れに引き渡された」(23節)とあり、その結果、そのような行為に及ぶようになったわけです。幼いころから同性への性的魅力を感じることとは全く違います。純粋な子どもでも異性に全く興味がなく同性が好きな人はたくさんいるのです。彼らは、「汚れに引き渡される」ようなことは何一つしていません。さらに2章にこう続きます。「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。」他人を裁くような人に最も厳しい神の裁きが来るのかも知れません。

5.第一コリント6章9節には、「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。」と書いてあります。英語では「男色するもの」がhomosexualsとなっている訳がありますが、ここのギリシャ語の意味はいまいち分かっていません。Arsenokoitesという言葉は、男と寝床という言葉をつなげていますが、パウロのここでの使用が古代ギリシャ語で初めての用例、つまりパウロによる造語という説が有力です(パウロは手紙の中でたくさんの造語を生んでいるそうです)。その後の用例を見ても、性的なニュアンスはあるものの、同性関係と言えるには程遠いです。

6.第一テモテ1章10節もコリントと同じギリシャ語の単語が使われています。

つまり、クリスチャンであろうがなかろうが「キリスト教では同性婚は罪」と考えていたあなた。聖書を正しく読むとそのようなことは一切書かれていません。

さらに理解しないといけないのは、聖書が書かれた時代にはセクシュアリティという概念がありませんでした。現代では社会学的にも科学的にも同性愛についての理解が進んでいます。しかし聖書は地球が平たいということを前提にした記述や、イエスがからしだねが最も小さい種だと言ったり(もっと小さな種もあるのに)、当時の世界の理解に基づいて書かれている訳です。イエスが「地の果て」と言ったからと言って地球に「果て」があると信じる人はいません。聖書が教える真実と与える命に変わりはありませんが、宇宙や地球に関する科学的なことや、セクシュアリティなどに関する複雑な科学的、社会的な問題に対して決定的な論点を持っている訳ではありません。

つまり僕の結論は、聖書は人のセクシュアリティに関する答えは持っていない、ということです。それは、実際にLGBTQの方たちと対話し、キリストの愛と憐みを持って受け入れることでしか理解できるようになりません。日本でも13人に1人はいると言われている性的マイノリティの方に対して、つまらない古びれた聖書解釈で断罪・排除するのではなく、神の美しい創造として愛とリスペクトを持って接していくことが、キリストに従う者のあるべき姿だと信じます。