聖書学,  釈義

聖書にある矛盾

聖書には多くの矛盾があります。これは、正直な目で読むと明らかです。特に新約と旧約を読み比べると、神の性質や大切にされているモラルなどが丸っきり違います。民数記15章では、安息日に薪拾いをしただけで死刑なのに、ヨハネ5章でキリストは安息日のユダヤ人の規定を平然と破ります。また申命記21章では、親の言うこと聞かない反抗的な子どもを処刑するように命じていますが、ルカ10章では、反抗的な息子を父親が完全な愛と赦しをもって迎え入れる物語が出てきます。

多くのクリスチャンは、普通の人が見て明らかに「矛盾だ」と感じる箇所に出会っても、「聖書無誤性」という前提が刷り込まれているので、それを上手く調和させる方法を考えるのです。一番一般的なのは「旧約は旧約、新約は新約」「新しい契約だから」などと、旧約と新約で別の神の基準があったという考え方です。しかし神は永遠に変わらぬお方ではないんでしたっけ?「それは当時の文化だった」などという説明もあります。また答えに行き詰った時は「神の道は人の道よりも高いから」(イザヤ55:9)と言って逃げます。

聖書全体が神による誤りのない言葉、という認識では、幼い子どもも含む大量殺戮も容認されます。自分の偏見に基づいて相手を裁くことも、敵を愛するのではなく復讐することも、貧しい人やホームレスなど必要を抱えている人を顧みないことも、自分と違う人たち(性的少数派、移民、他宗教信者など)を差別することも正当化できます。

そうすると、イエスは何のために来たのでしょうか。ただ死ぬため、何かの霊的な意味で生贄となって私たちの罪を救うだけの為に来られ、その他はあまり意味がないようです。旧約聖書に書かれていることは全て真実ですから・・・。

いや、キリストは新しい道を示しに来られました。聖書は神の完全な啓示ではないのです。それはイエスキリストです。聖書の中に矛盾が生じた時は、イエスキリストに従うのがクリスチャンとしての正しい選択です。勿論、全ての問題にはっきりとして答えがある訳ではなく、社会的状況からしっかり議論すべきトピックもあります。しかしその時のクリスチャンのベクトルは「キリストならどうしただろうか」です。キリストは2つの大切な戒めを明言されました。それは、神を愛すること、そして他人を愛することです(マルコ12章)。問題にぶち当たった時は、やみくもに「聖書にこう書いてあるから」ではなく、よりキリストの愛に近い方を選ぶのがクリスチャンとしてのあるべき姿ではないでしょうか。

これが理解できず、聖書に矛盾がないかのようなふりをして生きると、その矛盾はクリスチャンの生活の中に現れます。愛を語っていると思っても、人は愛と同時に裁く声も聞こえてしまうのです。自由を語っているつもりでも、それを聞いて自由よりも束縛を感じる人が多いのです。

イエスを本当に「主」だと宣言するなら、聖書の中の彼の言葉を最優先にすべきです。キリストを聖書の他の言葉に従わせることで、キリストの言葉自体がないがしろになるようでは、もはやキリストは「主」ではないのです。キリストを主とするか、聖書を主としてキリストを二次的な存在にするかの選択です。クリスチャンは前者を選択すべきでしょう。