信仰,  釈義

モーセかイエスか

「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」

へブル人への手紙13:8にはこう書いてあります。しかしそれをどうも信じていないクリスチャンがたくさんいるようです。キリストが神であるということは信じているでしょう。ヨハネの福音書の冒頭にあるように、イエス・キリストは神であり、ことばであり、永遠に存在したとされています。しかし、僕が強く主張するのは、その神が、はじめからずっと福音書の中で示されたイエスのようであったということです。永遠に変わらぬお方です。これに対して、なかなか理解していただけないクリスチャンが大勢います。

それも、以前から話している通り、キリスト教と、僕が「聖書教」と呼んでいるものの混同から起きるのです。聖書教を信じるがあまり、聖書のすべての箇所が同じだけ正しくないと納得いかないのです。そのような思考回路に陥ってしまっている為、旧約聖書にイエスの教えと全く相反するような行為が神の名の下に行われていたとしても、それが神の「正義だ」とか、「聖さだ」とか言うのです。

クリスチャンではない方や、旧約聖書を詳しく読んだことのない方にとっては、ゾッとするような「命令」や指示が聖書にはたくさんでてきます。いくつか挙げます。

・結婚初夜に処女でないと分かった新婦を処刑される(申命記22章)
・男性は婚前に女性を犯しでも、その女性と結婚するか金銭的なペナルティーを払うかで済まされる(出エジプト記22章)。
・男性は妻が不倫していることを疑うだけで苦い薬を飲ませて子を産めなくする壮絶な儀式をさせることができる(民数記5章)
・イスラエルが敵を打ち破って多くの捕虜を連れて帰って来た時、若い処女以外を皆殺しにした(民数記31章)
(性奴隷とは明記されていませんが、当時の慣習からほぼ間違いないでしょう。)
イスラエル社会はこのように、かなりの男尊女卑だったわけです。ですから、律法を守るべき、と言う人は、本当にこんなことを守りたいですか、と聞きたいです。

また律法では奴隷制度も是認されています。有名なノアの箱舟の物語では、ほぼ全人類と動植物が根絶やしにされるという残酷な神の裁きが下ります(創世記6章―8章)。律法を与えたモーセが死んだ後、荒野を40年さまよってイスラエル人は、ヨシュアの指導のもとカナンの地に住んでいた人々を虐殺して土地を奪い取ります(ヨシュア記)。このように、旧約聖書の記述をそのまま鵜呑みにするなら、神はヒットラー顔負けの大量殺人鬼です。誰が見ても道徳的に受け入れがたいような話が旧約聖書にはたくさん出てきます。

しかし、僕が従うのは聖書教ではないのです。キリスト教です。ですから、キリストが何というかがクリスチャンの行動規範です。キリストはこのような、現代人の私たちからしたら反吐がでるような道徳観をそのまま踏襲されるのでしょうか。それとも新しい価値観を示されるのでしょうか。いくつか例を見ていきましょう。

●親の言うことを聞かない子ども

※モーセの律法
「もし、わがままで、手に負えない子があって、父の言葉にも、母の言葉にも従わず、父母がこれを懲らしてもきかない時は、 その父母はこれを捕えて、その町の門に行き、町の長老たちの前に出し、 町の長老たちに言わなければならない、『わたしたちのこの子はわがままで、手に負えません。わたしたちの言葉に従わず、身持ちが悪く、大酒飲みです』。 そのとき、町の人は皆、彼を石で撃ち殺し、あなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。そうすれば、イスラエルは皆聞いて恐れるであろう。」申命記21:18-21

※キリストの教え
例え話の最初を要約すると、まだ健在の父親に「遺産をくれ」と息子が良い、親を出ていきます。放蕩したのち、自分の過ちに気付いて帰ってきますが、どうなるでしょうか。モーセが言うように、わがままで大酒のみの彼は処刑されるのでしょうか。
「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。 15:21息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』 15:22ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。 15:23そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。 15:24この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。」20-24節。

この話に出てくる父親は、モーセの残酷で非人道的で愚劣な死刑の命令を完全に無視し、息子を心から歓迎し、憐れみと赦しを持って祝い、父子の関係が完全に回復されるのです。

●安息日

※モーセの律法
イスラエル人が荒野にいたとき、安息日に、たきぎを集めている男を見つけた。たきぎを集めているのを見つけた者たちは、その者をモーセとアロンおよび全会衆のところに連れて来た。しかし彼をどうすべきか、はっきりと示されていなかったので、その者を監禁しておいた。すると、主はモーセに言われた。「この者は必ず殺されなければならない。全会衆は宿営の外で、彼を石で打ち殺さなければならない。」そこで、主がモーセに命じられたように、全会衆はその者を宿営の外に連れ出し、彼を石で打ち殺した。民数記15章32-36

※キリストの教え
ここも最初は要約します。キリストは生まれつき足の萎えた人を癒し、その人が使っていた寝床を抱えて家に帰るように命じます。しかしこれが安息日であったため、薪を披露のと同じように床を抱え上げるのも死刑に値するとユダヤ人は考えていたようです。そのユダヤ人とイエスのやりとりがこうです。
—このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。

しかし、キリストは「子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません」と答えます。つまり、安息日に床を取り上げるように命じたのは、父なる神なのです!では、薪を拾っただけで処刑を命じた神はどうなるんでしょうか?イエスが現していた神は明らかに違います・・・。神は命を奪う方ではなく、命を与える方だとはっきり仰いました。

では、どっちなのでしょうか。神は私たちに反抗的な子どもを殺してほしいのか、それとも愛と赦しをもって迎え入れてほしいのか。安息日を破る者を処刑してほしいのか、それとも安息日にも規則に縛られずに生きてほしいのか。敵を皆殺しにしてほしいのか、それとも敵を愛し敵の為に祈ってほしいのか。私たちはどちらかを選ばなければなりません。旧約の神はこうだったが、新約ではこうだった・・・そんなデタラメは通用しません。この明らかに矛盾した神イメージをそのまま受け入れようと、ディスペンセ―ション主義という神学が生まれました。それは、神がこの世をいくつかの時代に分けておられ、それぞれの時代によって異なった形で人間に接される、というものです(かなり大雑把に書くと)。しかし、冒頭でも言ったように、イエスキリストは初めから終わりまでずっと同じなのです。勿論、彼の敵を愛するようにとの教えも、罪を犯した子どもを両手を広げて迎えてくれる父なる神様の心も、初めからずっとそうなのです。旧約時代は厳しく、新約で急に優しくなったのではありません。

ではモーセの律法や他の旧約聖書の記述を無視しても良いのか。捨ててしまっても良いのか。いや、そんなことはありません。旧約聖書は、人間がどうやって本当の神を知るようになったかがストーリーとして描かれているからです。ただ、そこにあるすべての神描写が本当の神を現している、という勘違いにだけ気を付けなければなりません。へブル書では、モーセの律法を「後に来るものの影」と呼んでいます(10:1)。要するに、完全な現れ出ないことを聖書の著者も認めているのです。

キリストは、罪に対する罰と報復ではなく、愛と恵みを説きました。またその愛と恵みを十字架の死によって完全に示されたのです。ノアの神話のように、罪に対して完全な滅びを下すのではなく、キリストが人の罪を赦すためにご自身をお捧げになったのです。なぜそのような必要があったのでしょうか?それは、人が神を殺すという最も酷い罪を犯すことによって、神の赦しの力が最大限にまで現れるためです。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。この言葉によって、人間のすべての罪は赦されています。

モーセか、イエスか。モーセもイエスも「イエスだ!」というでしょう。ですから、モーセの書はしっかり読み、学ぶべきですが、キリストがそのガイドであることを忘れてはいけません。キリストの十字架の赦しや山上の垂訓などを心に留めずに旧約聖書を読むと、大変なことになります。私たちは聖書に従うのではなく、イエス・キリストに従うのです。

「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである」ヨハネ1:17

イエスキリストこそが、道であり、真理であり、命なのです。モーセではありません。聖書でもありません。
憐れみは裁きに打ち勝つのです。(ヤコブ2:13)
愛は多くの罪を覆うのです。(第一ペテロ4:8)

聖書教はキリスト教と相容れません。聖書に信仰を置くか、キリストに信仰を置くか。両方は無理です。
僕は聖書を読みます。モーセについても読み、理解しようと励みます。
しかし従うのはキリストただ一人です。