信仰,  釈義

「その恵みはとこしえまで・・・」

詩篇には、イスラエルの人々が神への賛歌として書き残した歌がたくさん載っています。その中には、イスラエルの戦争の歴史を生々しく語ったものもあるのです。そしてイスラエルは、周辺諸国と全く同じように、神が自分たちの味方をしてくれた、と言い張ります。

「エジプトの初子を打たれた方に。
その恵みはとこしえまで。」
詩篇136:10

これは、イスラエルの民が、奴隷として400年も住んでいたエジプトから逃げ出す前に、預言者モーセを通してエジプトに10の疫病を送られ、その10番目の疫病では、エジプト人のすべての長男が死にます。

この箇所を読んで、変に思いませんか?殺された長男たち、そして息子やお父さんやお兄さんを殺されたエジプト人は、「その恵みはとこしえまで」と思うでしょうか?そんなはずないですよね。このような描写は詩篇にたくさん出てきます。「悪者を殺して下さい」(139:19)とか、もっとグロテスクなのに「おまえの子どもたちを捕らえ、岩につける人は、なんと幸いなことよ」(137:9)などがあります。

実は、この「その恵みはとこしえまで」(訳によっては「いつくしみ」「愛」「憐れみ」などとなっているものもある)という言い回しは、神のイスラエルとの約束は永遠に続く、ということだ。では、神はイスラエル以外の民には、無差別殺人を行ってもいいのでしょうか?子どもを拷問してなぶり殺してもいいのでしょうか?

勿論、答えは「ノー」です。イエスに従うクリスチャンにとっては、ノーでないといけません。イエスは「敵を愛しなさい」と説かれました。イエスの言葉を真剣に捉えずに、他の聖書の箇所の字義的解釈を優先する「聖書教」信者の中には、敵を殺すのもやむを得ないと教える人も実際にいます。

では、この詩篇の箇所や、旧約聖書の話に出てくる虐殺などをどう理解すればよいのでしょうか。聖書に出てくるからといって、聖書の「神がなさった」と書いてあるからと言って、無実の子どもの命を奪うのは正しいのでしょうか?神以外の人がこのようなことをすれば、断罪します。それを神がやれば、別に構わないのでしょうか?

「神がなせば、それが無条件で正しい」という考え方もあります。「神命説」(英:Divine Command Theory)と言います。しかし、それでは道徳的判断を下す軸が全くなくなってしまい、神を認めない無神論と同じになってしまうのです。つまり、何でもありなんです。「神にはありだが、人間はそうではない」という訳にもいきません。なぜなら、聖書の中でも、神がなすことの多くは、人間を通してなされるからです。神命説を採用すれば、「神が良いと言えば何でも良い」となり、神が言ったか言ってないか、に論がすり替えられ、道徳的正しさの基準がなくなってしまいます。イザヤ5章にあるように、「善を悪、悪を善」と呼ぶことになってしまいます。

クリスチャンとして、道徳的に何が正しいかは、イエスの教えから判断します。そして、旧約聖書を解釈する時も、その基準で「本当にキリストのアバ父を現しているのか」を判断することができます。ですから、大量殺人や子供の拷問は、本当の父なる神がすることではありません。これは、普通に考えれば当然であり、別に旧約聖書を否定している訳でもなく、旧約聖書の神がキリストの神と違う、と言っているわけではありません。人々の心に覆いがかかっていて、自分の欲望などを神に押し付けて書いたと思えます。

要は、出エジプト記や他のモーセの書は、イスラエルの未熟な信仰を現したもので、神の本当の心ではありません。神の本当の心はイエスキリストによって現されたのです。

また、私たちの身に起きる悪いことは、先代の罪や咎に対する罰ではありません。旧約聖書を読むとそのように移りますが、イエスキリストはその考え方(要するにモーセの律法の考え方)を真っ向から否定されました。次の2つの例を是非考えてみて下さい。

 

ルカ13:1-5
ちょうどそのとき、ある人たちがやって来て、イエスに報告した。ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである。イエスは彼らに答えて言われた。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。

ヨハネ9:1-3
またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。

ですから、私たちは旧約聖書をそのまま読んで受け入れてはいけないのです。とても危険です。旧約聖書を解釈するのは、キリストを通してしなければいけません。旧約聖書は、イスラエルが神を知るようになるストーリーです。初めから全て分かっていた訳でなく、自分たちの世界観で描いているのです。ヘブル書の著者はこのことを「後に来るものの影」と読んでいます(ヘブル10:1)。だから罪の故に洪水や火と硫黄で人々が滅びたり、戦争で神の名を利用して虐殺したりします。神に喜ばれる為に生贄が必要だと思い、周りの異国民の影響を受けた宗教制度と律法を作り上げます。しかし預言者の書では、「生贄を喜ばない」「生贄など命じたことはなかった」と繰り返し出てきます。(イザヤ1:11-13、エレミヤ7:22、ホセア6:6、アモス5:25など)

イエスも、この預言者たちに賛同します。パリサイ人たちと安息日のことで口論になった時、「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい」と言われました。キリストは一貫して、神は良いものしかお与えならない、人を罪の故に罰することはしない、と教えられています。

天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
マタイ5:45

だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。 あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。
マタイ7:8-11

そして最後に、キリストは全ての罪を背負って死んで下さったのです。人を罪の故に罰する神ではなく、人の罪の罰を自分が受けて死んで下さるのが神の本当の姿なのです。これは新約の新しい契約ではなく(分からずやのイスラエルと私たちにはそのように提示されてはいますが)神の本来の、永遠に変わらぬ姿です。それは何故ですか?黙示録13:8にはキリストが「世の初めからほふられた子羊」とあります(訳によっては「世の初めから」は「命の書に名前がかかれた」にかかるとの考えもあります)。またペテロは「キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました」と言っています。(1ペテロ1:20)つまり「古い契約」に見られる神の怒りと裁きはイスラエルの妄想であり、「新しい契約」に現れるイエスの愛と憐れみこそが神の本当の姿だと言えるでしょう。「私を通してでなければ誰一人父のもとに来ることはできません」とはこのことです。神がどんなお方を知るには、キリストを見るしかないんです。旧約聖書をイエスなしにそのまま読んでも本当のお父さんの姿には辿り着けませんよ、キリストは言うでしょう。ヨハネ14章の弟子たちとの会話全体を読んで見てください。「私を信じない者は皆地獄行きですよ」より、ここで僕が提示している解釈の方が文脈に忠実だとお分かりいただけるでしょう。

福音派の教理をずっと叩き込まれてきた方は、このような教えを受け入れるのは難しいでしょう。僕もここに辿り着くまでにかなり時間がかかりました。でも、是非十字架のイエス様に心を開いて、彼の素晴らしい、その愛の「広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つように」(エペソ3:18)なることを僕は願っています。是非心を開いて、聖書を自分の教理を正当化する為の百科事典としてではなく、イエスキリストの十字架の愛と神の完全な現れを描いたストーリーとして読んでみて下さい。

また、確かに新約にも、旧約の神の「罰」を語る箇所があります。では1コリント10章を見ましょうか。

10:1そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。 10:2そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、 10:3みな同じ御霊の食べ物を食べ、 10:4みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。 10:5にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。 10:6これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。 10:7あなたがたは、彼らの中のある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖書には、「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った。」と書いてあります。 10:8また、私たちは、彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。 10:9私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。 10:10また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。

5節 荒野で滅ぼされました
6節 これらのことが起こった
8節 二万三千人死にました
9節 蛇に滅ぼされました
10節 滅ぼす者に滅ぼされました

パウロは神の罰だとは一切言っていないんです。罪は滅びを招きます。当然です。自分勝手に生きればそれ相当の実を刈り取ります。しかしその罰を下すのは神ではありません。パウロはここで、「神が滅ぼした」とは言わないように注意を払っているかように読めます。

神は罪を罰する方ではなく、罪を赦し、その違反を責めず、人と和解される方です。イスラエルはこのことを知りませんでしたが、キリストがそれを示して下さったのです。

2コリント5:16-19
ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。

これがキリストの福音です。

また、これは個人的な見解の範囲での主張ですが、イスラエルの歴史についての考察です。モーセの五書と呼ばれるものが書かれたのは、紀元前10世紀から7世紀頃です。編纂されたのはバビロン捕囚後の第二神殿時期が濃厚です。モーセが直接書いた訳ではなく、口頭伝承を基にしたフィクションです。まあ、歴史的な研究を無視して「モーセが書いた!」と言い張るクリスチャンも多いですが、アカデミックな観点からは全く支持されていません。旧約聖書の大部分は神話の域を出ないと考えています。今のユダヤ教の人も8割近くがそう捉えています。勿論神話だからといってその意味が廃れる訳ではありません。私たちと神の関係、そして後に来るキリストの預言となる素晴らしい書物です。ただ、書いた人たちは決して史実を書いた訳ではないです。聖書は事実ではなく、真実なのです。

聖書の全てを、十字架に架かられたキリストをレンズとして読めたらと思います。