信仰,  釈義

万民救済の誤解

先日、ある旧知の牧師と連絡を取り合う機会があった。私がまだ幼少だったころ、大阪の母教会はトロントなどで広まった「リニューアル」という聖霊派の運動に傾倒していたころ、数多くの著名な説教者が西田辺の狭い教会に来て語ったのを覚えている。その中でも特に有名なのはジョン・アーノット、ピーター・ワグナー両師。

90年代後半だったが、オランダ人説教者のピーター・ヘルムズという方も毎年のように来て説教をしていた。牧師でありながら、映画や音楽など、エンターテインメント業界にも通じている異色の人だった。「ホー!!」とパワフルに叫び、少しオランダアクセントのかかった英語でストレートに「聖霊の力」について語るのが特徴的だった。

最近も、3年ほど前に来日し、大阪の教会で顔を合わせたのだが、つい数日前あるメールが転送されてきた。ピーターが、カナダ人神学者のブラッド・ジャーシック博士を招待したセミナーを予定していると書いてあった。ジャーシック博士は、リニューアルなどの聖霊派の運動とは明らかに一線を画す頭脳派の学者で、聖書の無誤性や地獄の字義的解釈と永遠性を否定し、全てをキリストの十字架を中心として解釈するChristotelic(クリストテリック:「キリストを目的とする」)解釈を提唱している。私も彼の本を読んだし説教の動画もいくつか見た。プロテスタントの福音派・聖霊派からすると「リベラル」「異端」とくくられて断罪されるような人だ。

そのような人を、ピーターが招待していたとは!ピーターにメールを送って確認すると、今は南アフリカでゲストハウスを運営している彼は、ジャーシック師を「僕の友人でありメンター」と言い、ここ数年で考えが変わったことを語ってくれた。私も同じようにここ数年で考えが変わったことを話し、万民救済についても彼に聞いてみた。彼は、自分が「万民救済論者」とは言わないが、それを望んでいると言った。そして、万民救済が酷く誤解されているため、それを説明する論文をジャーシック師と共に書いたものを送ってくれた。

そこには、私がよく誤解されるポイント、疑問・質問を受けるポイントに対する明確な答えがいくつも述べられている。今日はそれを和訳して紹介したい。

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私が「グッド・ニュース」、つまり回復に主眼を置いた福音を語り始めて以来、私が万民救済論者になったという批判、そしてそれに連なる様々な批判を幾度も受けてきた。私が対話や討論を行い、ときどき熱くなったりする中で、多くの疑問は似たようなもので、誠実に答えなければならないと気付いた。議論と感情に埋もれてしまい、誰の為にもならないことが多い。よって、私はリサーチをし、新愛なる友人でメンターであるブラッドリー・ジャーシック博士の助けも借りて、聖書的、歴史的、神学的観点から実証した応答を準備した。これらの見識によって我々がより深い理解に達し、イエス・キリストが「神の完全な現れ」だということがより明確に見えることを願う。

まず、聖書から見ていこう。よくこのように言われる。「ピーター、あなたが言っているのは、地獄を信じていないかのように聞こえる!ただ単に全員が救われるように聞こえる。それは安っぽい恵みではないか?」私は答える。「安っぽい恵みなわけがない。彼はそれに全てを賭けた、ご自身の命を十字架に架けられたのだ!」「でも聖書は神の怒りと、やがて来る終りの日の裁きについても語っているではないか?」それに対しては、神の裁きとは、神の憐みと愛がキリストの十字架で完全に生きて現れたものだ、というように私は答える。この時点で、聞き慣れたフレーズが飛び出す。「でも聖書に書いてある!」そして、神の怒りや地獄に関する聖句が持ち出される。というわけで、我々が聖書に書いてあることを本当にどう信じているかを検証してみる必要があるかもしれない!

まず聞きたいのは次のことだ:

あなたは、神が「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる」と信じていないのだろうか?

あなたは、「すべてがひざをかがめ、すべての口が「イエス・キリストは主であると告白する」ことを信じていないのだろうか?

あなたはイエスが「私たちの罪だけでなく全世界のため」に死んでくださったと信じていないのだろうか?

あなたは、イエスが今「死とハデスの鍵を握っている」と信じていないのだろうか?

あなたは、「すべての人が、どこであろうと救われるように」と祈っていないのだろうか?

イエスが「世界の救い主」と信じていないのだろうか?

これらの聖書箇所を読むと、神は全ての人のことを思っておられることは明確だ。これらが「選ばれた人たち」、自分と、自分と同じように信じている人たちだけが確実にあずかれる、という理解で読めば別だが。

これらの有名な聖書箇所は、少数の人が救われることを指しているのではなく、私が正しく読んでいるのであれば、人類の大多数が救われることを指している。しかしこれらは、いくつかの聖書箇所に過ぎないので、もっと熟考できるようさらに多くの聖書箇所を載せよう。

「こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。」ルカ3:6

「この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。」ヨハネ1:7

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」ヨハネ1:29

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」ヨハネ3:16-17

「父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。」ヨハネ3:35

「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」ヨハネ4:42

「というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」ヨハネ6:33

「わたしは、世の光です。」ヨハネ8:12

「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」 ヨハネ12:32

「イエスは、父が万物を自分の手に渡されたこと…を知られ」ヨハネ13:3

「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません・・・・・・わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。」ヨハネ6:37,39

「それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。」ヨハネ17:2

「イエスは・・・万物の改まる(回復される)時まで、天にとどまっていなければなりません。」使徒3:21

「神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。」エペソ1:9-10

「神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」エペソ1:22-23

「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています……の十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」コロサイ1:15-17,20

こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。」ローマ5:18

「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。」ローマ11:36

「なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。」ローマ11:32

「アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。 」1コリント15:22

「そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。「彼は万物をその足の下に従わせた。」からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。」1コリント15:24-28

「れは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」ピリピ2:10-11

「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」ピリピ3:21

「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」1テモテ2:4

「すべての人を救う神の恵みが現われ」テトス2:11

「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。 」へブル1:2

「主は・・・ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。 」2ペテロ3:9

「この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめ(和解)の供え物なのです。」1ヨハネ2:2

「また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。『御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。』」黙示録5:13

「すると、御座に着いておられる方が言われた。『見よ。わたしは、すべてを新しくする。』」黙示録21:5

これらの箇所が、それぞれ単体で万民救済を指すわけではないが、まとめて注意深く読むと、「憐れみは尽きない」神、「その恵みはとこしえまで続く」神を力強く証している。

このような箇所は非常に多いが、真剣に検討されておらず、「すべて」が「すべて選ばれた人たち」「いろいろな人たち」「すべてのクリスチャン」などに縮小されてしまっている。しかし、それは聖書が言っていることではない。すべての人、すべての物、全世界、全被造物…聖書を書いていた人たちが、「すべて」が「正しいことを信じるに至った限られた少数の人たち」に狭められてしまうのを見据えていいて、そうならないようにはっきり書いたかのようだ。

さらに、私は「地獄」の箇所がこれらの箇所を否定する為に使われたとしても、これらに勝るとは思えない。これらの万民救済的な聖書箇所が、地獄をどのように扱っているかは至ってシンプルだ:地獄が何であろうが、それは終わるのだ。それだけだ。地獄を「永遠」と言っている箇所は語訳で、「アイオニオス」は「後に来る世」という意味でしかない。後に来る世も終わるのだ。その後、1コリント15では、終りが来て、それが永遠に続き、神がすべてにおいてすべてとなる、と言っている。

第二に、聖書箇所よりも、私は他の人が地獄に行かないと納得できず、自分たちが天国にいると推測している人は、大いに問題だと感じる。それはなぜだろうか?(上記の)最高の聖書箇所を無視するのは、聖書そのものを守るためなのか?それとも、自分の教義を憐みよりも上に置く伝統を守っているのか?字義的な聖書解釈の方が、神の愛という性質を守るよりも大切なのか?

もし神が全能ならば、地獄から誰でも救うことができる。地獄は神を支配しているわけではない。もし神が完全な愛であれば、すべての人を地獄から救いたいと願う。もしそれが神に可能で、神がそれを願うのであれば、そうしないということがあり得るだろうか?我々もそれを望まないだろうか?なぜ望まないのか?このような議論になったとき、私は次の興味深い話を持ち出して、こう言う:

私は、ある人がパラダイスに入れないのはあり得ると考えている・・・アトス山にある聖人がいた。ある修道僧は彼と話していて、その修道僧は地獄のことを意欲的に語り、罪人がそこにいくことを喜んでいるようだった。聖シルアンはこう答えた。「もし主がお前とお前の全ての兄弟を救っても、キリストと教会の敵が一人でも外の暗闇に取り残されていたら、お前はすべての者と共に、神にその悔い改めない一人の兄弟を救うように懇願し続けないだろうか?もし昼夜神に求め続けなければ、お前の心は鉄だ。パラダイスに鉄はいらない。」

そう、パラダイスから除外されることを恐れないといけない人がいるかもしれないのだ。それは異教徒でもなく、殺人犯や姦淫の者でもない。彼らの心は、花婿の呼びかけによって和らいでいるからだ。しかし恐れるべきなのは、独善的な者で、自分が「入れる」、他者は「入れない」と確信し、自分を特別な地位に置いてそれをドグマ化し、他の人が「救われていない」と決め付ける人たちだ。実は、ローマ5章は赦しと和解(すべての人)を十字架と結び付けているが、「救われる」ことは、復活した将来について語っているのみだ。誰が救われているか?それは、その日にしか分らない。そして、その日にはサプライズがあることをイエスも明確にしている。

さらに、聖シルアンは、真のキリストの弟子であれば、モーセやパウロのように、彼らの代わりに呪われることを申し出るだろうと言っている。もし一人でも地獄にいることを知れば、新しいエルサレムの外の暗闇で、その人の代わりとなるよう必死に許可をキリストに求めるだろう。もしそうなったとすれば、我々はまさにキリストようになったのではないか?キリストがまさにそうしてくださったのだから。そうなれば、地獄の問題を最終的に解決したことにならないだろうか?ともかく、聖ルシアンは、誰が地獄にいるかではなく、自分がそこにいることをイメージすべきだと説いている。それでも、「失望してはならない」のだ。

こうなると、議論はひっくり返ってしまった。パラダイスでの場所を失ってしまう人がいる可能性もある、と示唆している私は、完全な万民救済論者と名乗ることはできない。しかし、地獄に行く可能性のある人とはどういう人だろうか?自分が救われていると決め付けるが、「救われていない人」もそこにいることを想像したくない人かもしれない。そのような人には大きな危険が迫っている。でもその人を励ましたい、いや、その人でさえ地獄に行くことがないよう願い、祈りたい。聖シルアンが言うように「もし誰かが行くとしたら、私だけだ。」ゆえに私は願い、祈る。「主よ、憐れんで下さい。」そして私は失望しない。なぜなら、神こそが永遠の憐みだと信じているからだ。

最後に、他の人たちが、万民救済論者が何を信じているのか本当に分かっているのかを問うべきだと思う。ある人は、万民救済論者が次のことを信じていると誤解している。

1.全員が救われるので、この人生で何をしても構わない。
2.イエス・キリストは神への唯一の道ではなく、すべての道が神に通じる。
3.どうせい全員天国に行くので、キリストに信仰を置くこと、福音に応答することは不要だ。
4.神の裁きはなく、「地獄」も誰も行かないので、存在しない。
5.救いはすべての人にとって予め定められているので、自由意志は関係ない。

この時点で、ある人はこのような人のことを万民救済論者と呼ぶため、私は万民救済論者であることを断固拒否する。私は上記のうちのどれも信じていない。それでも私が万民救済論者だと他の人に言うなら、それは偽証の罪となり、イエスを十字架につけた人たちと同じ罪だ。

しかし、実のところ、私が知っている万民救済主義クリスチャンで、そのようなことを信じている人は存在しない。ロビン・パリー氏は、おそらく世界でもっとも有名な「福音派万民救済論者」だが。彼は次のことを信じている。これは多くの教会史の教父たちが信じていたことだ(例えば、正統派と異端を明確に分けたニュッサのグレゴリーなど):

a. 福音派万民救済主義は、どのように生きるかは極めて重要だと説く。神の前に立つ時に説明できるのはこの人生だけだからだ。戻って変えたり、再び生きることはできない。よって、自分の生きる意味を見つめなおすことは非常に重要で、「損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります」とならないためだ。(1コリント3章)

b. 福音派万民救済主義は、イエスこそが神への唯一の道であり、その道を十字架によって全世界のために備えてくださったと説く。多くの道はどこにもいきつかないが、イエスは一人の人を見つけるためにどんな道も歩んで下さる。それは(エペソにあるように)、地の低いところ、まさにハデスをも歩んで下さるということだ(使徒信条「陰府」)。人は、全能なる十字架の恵みによるキリストの完成された働きでのみ救われるのだ。

c. 福音派万民救済主義は、イエス・キリストに対する自主的な信仰の応答は確実に必要だと説く。尚、黙示録1章のイエスの言葉によると、死のデッドラインは壊されていて、キリスト自身が「すべての目が彼を見る」と預言し、パウロは、すべての者が膝をかがめ、すべての口がイエス・キリストは主だと告白する、と預言している(ピリピ2章)。パウロは、天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、見えないものもすべてキリストの血によって和解されると言っている(コロサイ1)。最終的に、キリストは全宇宙を父に委ね、敵はもはやいなくなり、神がすべてにおいてすべてとなられる(1コリント15)。

d. 福音派万民救済主義は、神の裁きは確かにあり、すべての人が火を通らなければならないと説く。しかし、その火は、神の栄光による焼き尽くす火で、清めの火であり(マラキ3章)、木、草、わらで現される偽の自分をを焼き尽くし(1コリント3)、かすんでしまった神の栄光の姿を、金、銀、宝石のように回復させる・・・しかしイエスは、火によって塩気をつけられるのは良いことだと言っており(マルコ9章)、罪を贖うものだ。勿論、厳しい「地獄の炎」による破壊の働きもあり、この人生ですでに始まっている・・・悪人が次の世で裁きに遭う時に何が待っているかは分からない・・・しかしこれは分かっている:憐れみは裁きに打ち勝つ(ヤコブ書)。

e. 福音派万民救済主義は、自由意志は重要だと間違いなく説いている。しかしこの人生では、多くの惑わしと束縛によって、敵対者が未信者の心を盲目にしてしまっていて、彼らは信じることができない(2コリント4章)。キリストの光によって福音がその覆いを突き破るしかない。ある人たちにとっては、単純に、信じる自由がこの世では与えられていない。まだ盲目で自分を治すことができず、それで見えていないのに、どうして永遠に裁かれることがあり得ようか。しかし、彼らがイエスを見た時、彼らははっきりと見え、応答するだろう。その時には、彼らは自分の自由意志でそれを望まなければならない。そして聖書は彼らがそのように望むと教えている、と万民救済論者は信じている。

これらのポイントにおいては、私は万民救済論者たちと同意する。私もすべての人の救いを願い祈っている。我々の使命は、地獄があるということを人々に納得させることではない(使徒の働きにはそのような説教は一切なく、パウロも彼の語る福音の中で一切地獄に言及していない)。我々の使命は、イエスが世界を愛し、世界がこの愛をしることを願い、そのための道を備えて下さったという福音を語ることだ。彼らの罪をすべて赦したことを知り、その赦しを体験してほしいと願っている。我々は、人々がどんな地獄の中に今住んでいようと、キリストは救うことができることを伝え、キリストの命と光と愛に溢れた食卓に、一刻も早く彼らを招くべきだ。

こういうわけで、ロビン・パリー氏は、「万民救済論者」としてこれらのことを信じているので、彼にそう呼ばれるのは構わない。しかし私に反対する人々は、「万民救済論者」という時に全く違ったことを意味していて、それは正しくなく、私はそれを信じない。だから、彼らにはそう呼ばせない。.