信仰,  釈義

失われた福音―新約聖書が語る十字架の意味

イエス・キリストの福音のの中心は十字架である。それは、多くの場合、「キリストが十字架の死によって罪が赦された」と説く。確かに、キリストの十字架は、罪を赦す、という側面はあるが、特に近年のプロテスタント教会では、それだけが強調され、他の部分がないがしろにされている。
 
「罪を赦すために十字架に架かる」という考えは、使徒パウロの書簡には多く見られるが、4つの福音書はそれよりももっと大きなテーマでキリストの教え、生き方、十字架を描写している。それは、「この世の国 VS 神の国」という構造の戦いである。
 
民主主義国家が主流の近代国家では、聖書が語る「王」がピンとこないのかもしれない。聖書に登場する人々が思い浮かべる「王」とは、バビロンの王ネブカデネザル、マケドニアのアレキサンダー大王、ローマ帝国のユリウス・カエサルなど、圧倒的な軍事力で多くの国々を支配した王たちだろう。
 
ユダヤ人たちは、古代に繁栄したダビデ、ソロモン王の国家の再興を願い、イスラエルにも「メシヤ」が王として来ることを待ち望んでいた。しかし、メシヤとして来たイエスは、全く違う「王」の在り方を示したのだ。これは、現代の多くのクリスチャンは聖書を読んでも完全に見逃してしまっている。イエスの弟子でさえ、イエスが死んで蘇るまでは分からなかった。
 
ルカ6:22-36
「あなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。すべて求める者には与えなさい。奪い取る者からは取り戻してはいけません。自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、同じことをしています。返してもらうつもりで人に貸してやったからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。貸した分を取り返すつもりなら、罪人たちでさえ、罪人たちに貸しています。ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」
 
これがキリストが説く「王国」の在り方である。キリストは生涯を通して、彼の御国がどのようなものであるかを、色々な例え話や人と直接関わりながら教えた。新約聖書が教える「永遠のいのち」(zoe aionios)も、実は、死後にいつまでも続く天国での幸せ、みたいなプラトンの天国を言っているのではない。メシヤの王国の一員になることを指しているのだ。こう考えないと、どうしても説明できない話が一つある。
 
マタイ19:16-26
「すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」 彼は「どの戒めですか。」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」 この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」 エスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」 ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。
それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」 弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」 イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」」
 
「永遠の命を得るために、律法を守らないといけない」なんて説くクリスチャンは今はない。なぜだろう!これがキリストの答えなのに。でも、よく見ると、律法の全てとは言っていない。律法が書かれた時代と、キリストの時代は大きく社会情勢が違っていたので、全ての律法を守ることは不可能で、それはユダヤ人も分かっていた。厳格で知られていたパリサイ派も、決して律法をすべて守っていたわけではなく、自分たちで守るべきものと疎かにしてもよい律法を勝手に決めてそれを人々に強制し、また「汚れた人」を決めつけて会堂から排除していたことをイエスに咎められたのだ。
 
ここで質問した青年も、律法をすべて守ることは不可能と分かっていたので、「どの律法?」と聞いた。そこでキリストが守るよう答えたのは、モーセの十戒の4-9、そしてレビ記19章にある「隣人を愛せよ」だった。それはやっている、と自信満々に答えた彼に対して、イエスは持ち物をすべて売り払うように言った。永遠のいのちを得るために、持ち物をすべて売り払え、などというクリスチャンはそんなにいないし、いればカルトとして断罪される(大抵の場合は牧師が心理的に支配してお金を巻き上げる紛れもないカルトなのだが)。しかし、キリストのスタンダードはこれなのだ。
 
(尚、これは青年個人に言ったこと、とか、まだ十字架に架かっていなかったので旧約律法の基準が適応された、と言うクリスチャンもいるが、それと同じ論理をヨハネ3章のニコデモとの会話にはなぜか適応しない。「生まれ変わる」べきなのはニコデモだけでなくすべての人で、それは新しいキリストの契約に適応されると説く。よって、この青年との会話を我々にも当てはまらない、とするのはキリストの言葉を都合よく無視するためのダブルスタンダードだ。)
 
イエスは妥協しない。彼の御国で偉くなりたい者は、最も貧しく、最も謙った者にならないといけない。それをキリストは何度も何度も説いた。前述のルカ6章ではこう説いている。
 
6:22-26
「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。 いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。
いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、また、あなたがたを除名し、はずかしめ、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。その日には、喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいからです。彼らの先祖も、預言者たちをそのように扱ったのです。しかし、富んでいるあなたがたは、哀れな者です。慰めを、すでに受けているからです。いま食べ飽きているあなたがたは、哀れな者です。やがて、飢えるようになるからです。いま笑っているあなたがたは、哀れな者です。やがて悲しみ泣くようになるからです。みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です。彼らの先祖は、にせ預言者たちをそのように扱ったからです。」
 
天の御国に入る者、そこで喜ぶ者は、クリスチャンとは言っていない。十字架の赦しを信じる者、とも言っていない。貧しい人達、社会的に虐げられた人達なのだ。
 
また弟子たちにこう教えた。
 
マタイ18:3-4
「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」
 
マタイ20:25-28
「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」
 
ヨハネの福音書では、キリストがもっとも謙ったしもべの姿をとったのを描いている。
 
ヨハネ13:1-15
この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された・・・夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。
ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」・・・「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」
 
キリストはこのように、神の国が、この世の国々とは違い、力で押さえつける支配的なものではなく、人々が自分の身を削り、他の人に自分を捧げるものであることを示された。
 
十字架に架かられたのは、そのことの最大限の啓示である。キリストが王なのは、最も強い支配者であるからではない、キリストが王なのは、誰よりも謙り、ご自身を捧げ、死にまで従って人に仕えたからだ。パウロはこう書いている:
 
「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義ときよめと、贖いとになられました。」1コリント1:22-30
 
さらに
 
「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人間と同じようなかたちになり、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」ピリピ2:6-11
 
キリストの福音を広げた使徒たちは、キリストの御国がこの世の国とは違い、人々が十字架のキリストを模範として生きることで神の国が広がる、という福音を理解し、語っていた。単に十字架を事実として理解して個人が救われるのではなく、十字架の自己犠牲をこの世界において具現化することでコミュニティが変わっていく、そういう福音を語ったのだ。
 
パウロはコロサイ1:24で実に面白いことを言っている。
「すから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。」
 
なんと、キリストの苦しみに欠けたところがある、とパウロは言っている!まさか・・・!
 
パウロはキリストの十字架と復活を中心に伝道したが、それは認識的に信じさせるためではなく、キリストの十字架の生き方を模範として広めることで、世界を変えようとしていたのだ。テサロニケやピリピの教会の信仰が褒められているのは、そこに自己犠牲の愛があったからで、コリントにはそれが欠けていたために諭されている。パウロの福音派、十字架で父が子を代わりに罰して経済的な支払いを完成させた、というものではない。神がキリストを通してご自身の本当の姿、神の国の価値観を存分に示され、同様にキリストの苦しみに預かることでそれを広めるというものだ。
 
キリストの模範に倣うように、との教えは使徒たちによって何度も何度も繰り返し唱えられている。
 
1コリント11:1 「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。」
エペソ4:32 「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」
エペソ5:1 「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。」
ピリピ2:4-5 「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」
ピリピ3:17 「兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。」
コロサイ3:13 「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」
1テサロニケ1:6-7 「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。」
1ペテロ2:21 「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」
1ヨハネ2:6 「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」
1ヨハネ3:16 「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」
1ヨハネ4:11 「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。 」
 
キリスト教の信仰とは、本来、キリストの教えと歩みに従い、それを全世界に広める、ということだったはずだ。それがいつしか、正しい教義を信仰した限られた者だけが天国へ行く、というおとぎ話に変わってしまった。
 
しかし、最近著書などでお世話になっているWalter Wink, Rene Girard, Marcus Borg, N. T. Wright, Miroslav Volf, Richard Rohr, Michael Hardinなどの功績により、この失われた福音、キリストの十字架の本来の意味が再び言語化され、広められつつある。
 
「御国が来ますように。
御心が天で行われるよう
地でも行われますように。」
 
キリストの十字架を通して全世界に救いと平和が広まることを期待し祈り続ける。