信仰,  社会

今の自分の信仰があるのは、イスラム教徒の方々のおかげ

私はイスラム教徒の方々に心から感謝している。彼らは、神の愛と憐れみを教えてくれた。それは、多くのクリスチャンが教えてくれる以上のものかもしれない。彼らの信仰と愛に満ちた行動なくして、今の自分の信仰はないだろう。

2年程前の話だが、ISISがイラクで、クリスチャンやヤジディ教などの少数派を強烈に迫害していた時のことだ。そのクリスチャンと心を共にするという意味で、アラビア語のNの文字、ن をSNSにアップしたり、Tシャツに着たりする人がたくさんいたのを覚えている方もいるかもしれない。

これは世界中のクリスチャンが、迫害されている兄弟姉妹の為に始めたキャンペーン・・・ではない。実は、これはイラクのイスラム教徒が始めたのだ。アラビア語のNは、Nazarene(ナザレ人)の頭文字で、イエス・キリストを表す。同じ国民のイラク人クリスチャンがISISに迫害されているのを見かねたイラクのイスラム教徒たちは、彼らを助けよう、彼らを守ろう、心を一つにしよう、という思いで、クリスチャンのシンボルである “N” を身に付けた。

「我々はイラク人、我々はクリスチャン」と彼らは言った。勿論、彼らはキリスト教に改宗したわけではない。彼らは、「クリスチャンを殺すなら、我々も一緒に殺せば良い」とISISに強烈なメッセージを送ったのだ。このようなイラク人イスラム教徒が何千人もクリスチャンの為に立ち上がったのだ。

私は、それまでもずっと保守的なキリスト教の「天国」と「地獄」について大いに疑問を持っていたが、この出来事がさらに歯車をかけることになった。クリスチャンの為に自分の命をも惜しまないイスラム教徒の人達も、キリスト教に改宗せずに死ねば皆地獄に行くのか?

「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」マタイ10:42

この人たちは、水を飲ませるどころか、自分の命をも危険に晒した。彼らは地獄に行く、というのが福音主義の考えだが、ここでは報いを受けるとキリストは言っている。どういうことか?地獄の炎に少しでも耐えられるように、エアコンがプレゼントされるだろうか?

私はこの葛藤をFacebookの投稿に書き、そこでクリスチャンの友人に質問した。もし、近くでイスラム教徒が迫害されていたら、彼らと心を一つにするために「私もムスリムだ」という言うことはできるか、と聞いた。そうすると、「彼らを助けることはできるが、自分をムスリムだとは言わない」という答えが大半だった。「ムスリムと言っても構わない」という人は一人もいなかった。

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。 」ヨハネ15:13

キリストは、最大の愛をこのように語っている。しかし、私の投稿に答えたクリスチャンたちは、イラクのイスラム教徒がクリスチャンに対して示した愛と同じ愛を示すことができない、と公言しているのだ。「キリストを否定したことになる」と恐れているのかもしれない。でも、神は愛であり、クリスチャンがすることの全ての動機が愛のはずなのに、その教義的な理由で他の宗教の示す愛に簡単に負けを認めているなら、信じる意味があるのか、と思った。

(その時は、まだ進歩主義のクリスチャンの友人があまりいなかったが、今ではたくさんFacebook上で友人になった。彼らは、もしアメリカでトランプ大統領がイスラム教徒の登録を始めたら、自分たちも行って登録する、と口々に言っている。)

私が、自分の信仰を見つめ直し旅はそこから始まった。今まで信じてきたことをもう一度洗い直し、本当に正しいのかをクリティカルに考える「脱構築」の旅だ。それは今も続いている。その中で素晴らしい友人にたくさん出会い、名だたる神学者、教師が書いた素晴らしい本をいくつも読み、感動と励ましを与える説教をいくつも聞いた。今の自分は、この旅に出る前よりもキリストの愛を伝える情熱を強く持っている。

だから私はすべてのイスラム教徒の友人たちに言いたい。ありがとう。アラーはあなたたちを愛している。アラーはあなたたちの祈りを聞いている。私たちが「カミ」「ゴッド」「ディオス」「アラー」など、どんな言語でどんな名前で呼ぼうが、神は全世界の神であり、造られた全てのものに憐れみと愛を与えて下さる方だ。

そして私たちが違いや苦しみを乗り越え、和解して平和に暮らせるように、私たち一人一人の中に今日も働いてくださる。

すべてのイスラム教徒の上に神の豊かな祝福があるように祈りたい。