聖書学,  釈義

創世記は比喩的に読む方が美しい

聖書、特に創世記など序盤の神話的書物を字義的に解釈することに拘る人の神経が理解できない。無論、何でも単純に「比喩」「作り話」と片付ける訳ではない。しかし、旧約聖書は文学作品だということを忘れてはならない。ユダヤ人の祖先が、子孫代々教えてきたことをまとめた書物だ。そこには多くの物語があり、その物語を通して、今起きていること、今我々人間が直面している問題の原点を探り、霊的な理由を見つけて、お互い教え合ってきた訳だ。

プロテスタント原理主義者の多くは、聖書の記述が、歴史通り起こったことをそのまま書いていると思っているが、イスラエルの世界観にはそのような直線的な歴史を書くという概念は存在しない。彼らは、歴史が循環していると思っている。エデンの園からの追放は、彼らがイスラエルの地から追放されたことを描写している。ノアの箱舟の話は、神がイスラエル人を一旦その地から駆逐したのちに、また新たにイスラエルの国を建てていくことが描写されている。

アブラハムがウルの地からカナンを目指した旅、モーセがイスラエルの民を率いてエジプトを脱出してカナンの地を目指した物語も、イスラエルの民がバビロン捕囚から脱して約束の地に戻ることを描写している。このように、彼らの「歴史」はぐるぐる繰り返すように描かれているのだ。そしてそこには、イスラエルが神をどのように考えたか、さまざまな神像が描かれている。「聖書は創世記から黙示録まで一貫して同じ神を伝えている、だから神の言葉だ、奇蹟だ」などと言う人がいるが、それはそういう先入観で読んでいるからで、そもそも何をもって「同じ」とするかは基準がなく、読者のイメージでいくらでもそう言える。

でも、レビ記が描く神像と申命記が描く神像は大きく違う。ヨブ記、伝道者の書、箴言、預言の書ではまた大きく違うし、完全に相反することが書かれていることもたくさんある。(一例をあげるなら、出エジプト記20:5や民数記14:18では親が罪を犯せばその孫やひ孫にも呪いが及ぶとされるが、エゼキエル20:18ではこの概念を完全否定し、罪を犯した本人のみが罰せられる、と言っている。)

このように、イスラエルの人達は、「神とはどんなお方だろう?」と問いかけながら自らのアイデンティティを築いていったわけだ。なので、旧約聖書は人殺しが多くて血なまぐさく、神も怖い、というイメージを持ってしまう人も多いが、その必要はない。それらは、すべてが歴史的事実ではなく、ストーリーなのだ。でも、それらのストーリーには、我々に語り掛ける強い意味と言葉がある。字義的な解釈に拘っていると、これらの智恵の宝物を完全に見失ってしまうことになる。

(例えば、ヨシュア記に描かれているカナン人の大虐殺も、そんなことは全く起きていないというのが考古学の研究から明らかになってきている。)

一つ例を紹介しよう。ブライアン・マクラレン師が書いた本 “We Make the Road by Walking” (歩くことで道ができる)には、創世記の天地創造の物語が解説されている。エデンの園にあった「いのちの木」と「善悪の知識の木」の二つの木のことを見事な比喩で説明している。その箇所を和訳して紹介したい。

「(この箇所には)たくさんの答えがあるだろうが、この可能性を是非考慮していただきたい:二つ目の木は、神の立場になり、神の創造物の一部に対して判断を下したい欲望を象徴している。神は、すべてを「良い」と言ったが、それを「悪い」と言う欲望だ。この危険が分かるだろうか?神の判断はいつも賢く、平等で、真実で、慈悲深く、和解をもたらすものだ。しかし我々の判断は無知で、偏見、復讐心、軽蔑などからくる場合がよくある。だから我々が判断をする時、判断を誤ってしまう。

我々が神の立場になって、何が良いか悪いかを判断し始めるとき、この人々、この部族は良いから生きる価値があるが、この人やこの部族は悪いので死ぬか奴隷になるべきだ、と言い始めるまでどのぐらいかかるだろうか。この種類の動物は良いので生き延びる価値があるが、この動物は価値がないので絶滅させても構わない、と言い始めるまでどれぐらいかかるだろうか。この土地は良いので守られるべきだが、あの川は価値がないので、使い果たしても、汚しても、毒を流しても構わない、と判断するまでにどれぐらいかかるだろうか。

我々が、二つ目の木から食べる時、我々は暴力、憎悪、破壊に支配される。ものに名前を付けてそれを知るという恵みを、この地球や人々を殺したり搾取したり破壊するためのライセンスとして使ってしまう。神はすべてのものを良いものと見ているが、我々は次から次へといろいろなものを悪いと決め付ける。それをするうちに、他の人の中にあると主張する悪を、自分たちの中に造ってしまっている。言い換えると、我々が人を裁いたり訴えたりすればするほど、我々が放つべき神の姿がどんどん薄れていく。そして神の姿を現す者としての可能性を発揮できなくなる。

よって、二つ目の創造の物語(創世記1:1-2:3までを一つ目の創造物語、2:4-3:24を二つ目の創造物語と見る解釈)は、我々人間にチャレンジを与えている。我々は、常に重要な決断をしているのだ。我々は、いのちの木から食べ、創造物の中に価値を見出し続けながら神の輝きを放って生きるのか。それとも、善悪の知識の木から食べ、常に神の立場をとって結果的に自分たちと同じ創造物を迫害してしまうのか。」

このように聖書を読めば、生きてくるのだ。遠い昔に起こった話ではなく、今現に我々の生活の中で起きていることをそのまま語っているのだ。それが聖書の素晴らしいところだ。イスラエル人が、起こったことを単純にその通り書き記した、と考えるのは、その人たちの智恵と啓示を否定するものだ。彼らは、いつの時代にも適応でき、どの世代も教え、神の素晴らしさに人を近付けることができるストーリーを描いたのだ。そこにはクリエーティビティーもあり、インスピレーション(霊感)も当然ある。

聖書を比喩的に読むことを怖がる必要はない。むしろその方が、その言葉が生きて、我々の人生の糧になるはずだ。