LGBTQ+,  信仰

キリストはゲイバーに居た

昨年6月12日、フロリダ州オーランドのゲイバーで乱射事件があり、49人の人が命を落としました。

乱射事件の時、キリストはどこにいたでしょうか?私たちが信じるキリストは、ゲイバーの中にいたのです。全ての銃弾を身に受け、死にゆく者、苦しむ者と共に泣き、共に苦しみ、彼らの傷を背負ったのです。キリストは罪の故に裁くお方ではなく、その裁きを己の身に受け、罪を全て身にまとい一緒に苦しんで下さるお方なのです。

神は罪があるところにはおられない、と思ってる残念なクリスチャンもたくさんいます。しかしそれは信仰が薄く、神の聖さが罪に負けると考えているからです。イエスは、本来律法では触れてはいけないらい病人に触れても汚れませんでした。癒したのです。神はどこにでもおられる方で、イエスは「罪人」と呼ばれた人達と常にいました。

また多くのクリスチャンは聖書の表面的な言葉だけを捉えて同性愛を断罪します。同性愛を罪と考えるのは、そういった考えもあると認められますが、キリストの行動パターンを見ると、キリストはそんな人たちと一緒に教会にいるような人でいはないでしょう。自分たちは救われている、という激しい思い込みの人達には厳しい言葉をかけられ(ゲヘナの裁きの対象はそういう人だけです)、社会的に虐げられている「罪人」達は神の国に入ると説きました。

彼はパリサイ人達に対して、遊女や取税人が先に天に入っていると語ったのです。ここで注目してほしいのは、「悔い改めた元遊女や元取税人」とは言っていないということです。キリストはどんな人もありのままで、罪のままでも受け入れてくれるし愛してくれるのです。

また私たちが他人の行動を見て「罪だ!」と思ったり指摘したりする必要はありません。むしろそれは危険です。そのように生きる人はそれがブーメランとなって帰ってきます。「あなたは他人を裁くことによって自分自身を罪に定めている」のです。(ローマ2:1)

キリストは、あなたがもっとも厳しく裁いている人と共にいるということを忘れてはなりません。私達の使命は、隣人を愛することで律法を全うすること(ガラテヤ5:14)と、喜ぶ者と喜び、泣く者と共に泣くことです(ローマ12:15)。

キリストは、罪深い人間が考え出した最も残虐で邪悪な処刑法である十字架を、争わずに受け入れられました。それを通して、神は常に弱い人たち、苦しんでいる人たち、虐げられている人たちと共にいることを啓示してくださり、そして我々もそのような人たちと共に苦しむよう呼びかけてくださっています。

ピリピ1:29
「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。」

上から目線で罪を裁く「信仰」に救いはありません。聖書の言葉を振りかざしても、そこにキリストの霊がなければ告発するサタンと一緒です。十字架で死なれた苦しみのしもべであるキリストの霊のみが世界を救います。