聖書学,  言語

言葉への拘りと、神学の問題

現代のプロテスタント教会で学ぶ教義にはたくさんの問題点があり、聖書の中で全く教えられていないことが平然と真理かのように語られていてるが・・・
 
その理由の一つは、言葉の意味への拘りがなく、漠然としたイメージでたくさんの言葉をひっくるめて一つの概念を生み出していることだと思う。
 
例えば、聖書では全く教えられていない死後の永遠の地獄を多くのクリスチャンは信じている。でも聖書をよく読むと、「地獄」について語られている箇所はごくわずかである。
 
中には「キリストは天国よりも地獄についてたくさん語った」という、ぞっとするような大嘘を平気で言うクリスチャンも聞いたことがあるが、新約聖書では「ゲヘナ」「ハデス」「裁き」「滅び」「火」「火の池」など、色々な表現がそれぞれの文脈で使われている。
 
これら一つ一つには重要な意味があり、著者は拘って言葉を選んでいるのにも関わらず、現代プロテスタント教会の多くはそれらを無視し、全部ひっくるめて新たな教義を造り出し、それが2000年変わらぬ真理であるかのように広める。
 
もう一つの例は、「救い」だ。「救い」「義認」「永遠の命」なども、それぞれの言葉に違った意味があり、その違いはとても重要だ。なのに、その違いに着目せず、全部ひっくるめて理解していまう。そうすると、とても狭く乏しい「救い」の理解になってしまう。
 
僕は、「神学校」が諸悪の根源だと思う。神学校で教えられていることが悪いからではなく、そこで教えられている神学は素晴らしく、聖書の奥義を本当に追求しているからそう言うのだ。でも、それらは、本当は神学校ではなく、教会ですべての信徒に教えるべきだと僕は思う。
 
高いお金を取って神学校で色々なコースを取る事によって、神学はエリートが学ぶものだという虚構ができてしまった。でも、神学は「神のことを学ぶ」学問で、教会に来るすべての人に開かれているものでなければならないのではないか?
 
神学書をたくさん読みあさっているだけで、神学校に行ったこともなく、牧会もしたことがない分際だが、今、我々が「神学」と呼んでいるものが、教会で当たり前に教えられ、語られ、議論されるように日が来てほしいと思う。