信仰

無知はクリスチャンの美徳じゃない!

僕は飢え渇いている。もっと知りたい、もっと理解した。特に自分が師・主とするイエス・キリストについてもっと知りたい。

原理主義クリスチャンと議論になる時に、僕が神学者の名前を出すと、「あなたは神学者に従うのか?私は聖書に従う」という。でも、聖書をそのまま信じている人は一人もいない。みんな誰かの教えを通して信じている。先人が築いてきて体系化された聖書解釈を受け継いで聖書を理解し、教義を受け入れて信仰を保っている。

しかし、あなたが信じているその教義の体系は、すべてのクリスチャンが共有しているのではない。それを共有しないクリスチャンを異端視するのは、教条主義であり、神ではなく自分の教義を絶対視する非常に危険な考えである。

だから、キリストに従う者、特にキリストの名を語り、彼の教えを広めていくものは、偉大な先人の信仰者、キリストの人生や聖書の言葉の意味を追究するのに命を懸けた人たちから謙虚に学ぶべきである。勿論彼らの教えることに全て同意する訳ではない。学者同士でも意見に食い違いは大きくあるからだ。

でも、「私は聖霊から学ぶ」などはただの詭弁だ。そういう人も結局はお気に入りの牧師や教師の説教を聞いたりして自分の理解を構築していく。

僕が昨年本を通して知り、Facebookでも友人になっていただいたMichael Hardin師は、Jesus Driven Lifeという本を書いて一躍有名になったが、その中で当時の時代背景を基にイエスがどのような人物だったか、彼がどうやって旧約聖書を読み、解釈したか(彼はすべて一字一句神の真理の言葉という聖書の使い方をしていない)などを詳しく解説し、本当にイエスに従う者としての姿を提唱している。

彼は、今の牧師や教師の多くが、霊的なランゲージンに包まれた薄っぺらいレトリックで多くの信者に影響を及ぼし、緻密で誠実な学術を疎かにしていると警報を鳴らしている。2013年のFacebookの投稿から翻訳させていただく。かなり辛口で、僕もぐさぐさ刺される思いだ・・・心して読んで頂きたい。

—–

この世界には、偽の学問が蔓延している。注意してほしい。多くの人は本を読んで、その著者の意見を次の理由で単純に受け入れてしまう。A:自分の神学的体系に当てはまるから。B:人気があるから。C:名前の後にPhDとついているから。

この「偽学問」はいくつかの形で現れる。

1つは、一般人や牧師がインターネットで偽ギリシャ語学習を展開することだ。ある単語にはこういう語源があるので、元々の意味はそうだ、というものだ。それは嘘だ。言葉の意味は進化する。言葉の意味は文章の文脈から得るしかない。なので、その言語を流暢に読めるようになるまでは、古びれたコンコルダンスを使って言葉を繋ぎ合わせて自分が賢いと世界の見せびらかすのは辞めていただきた。それはバカにしか見えない。

二つ目に、スタディーバイブルを持っている人がたくさんいる。スタディーバイブルほど役に立たないものはない。あるとしたらトイレットペーパーぐらいだ。信じられないことに、聖書の書物の紹介文を読んで、その紹介文も神の真理だと信じてしまう人がかなりいるのだ。例えば「ヨハネの福音書は使徒ヨハネによって、90年ぐらいに書かれた。」ナンセンスだ!そこで断言されている二つの情報は、どちらも議論の余地が広く開かれているものだ。でも、紹介文の情報を読んでそれを真理として教える人が本当にいる。またスタディーバイブルは、枠外や脚注に、文章が「こういう意味だ」と教えてくれる。それはどういうことか?あなたがそれを読むときに、その解釈でしか読むことができなくなるのだ。私が英訳の聖書を使う時は、注釈も紹介文もないものを使う。できれば脚注や他所参照もない方がいい。文章をそのままで読んでいくことを私は好む。

出版社を確認すべきだ。ゾンデルバン、ムルトノマー、ムーディーなどの出版社だったら、残念なものである可能性が高い。今は自己出版もできる時代になり、さらに酷くなっている。世界中の誰もが、何か言いたいことを言おうと思っている。友人の皆、注意してほしい。広い世界には、色々なトピックに関して素晴らしい学術が存在する。右側の偏ったものだけを読むのはやめてほしい。

また、キリスト教の伝統や聖書をひたすら批判する著者から引用して、それらがすべて事実であるかのように言う人もいる。進歩的なクリスチャンのことを言っている。バート。エアーマンや、ジョン・スポング、ドミニック・クロッサンなどを引用するのが大好きで、彼らがキリスト教の学術の全てかのように言う。とんでもない。彼らは皆賢く、批判的な見方に一理あるが、良く存在しない問題をでっち上げることもある。彼らの中には、中学生がカエルを解剖するかのように聖書を検証しようとする人がいる。友人の皆、聞いてほしい。広い世界には、色々なトピックに関して素晴らしい学術が存在する。左側の偏ったものだけを読むのはやめてほしい。

三つ目は、カッコいいスーツを着て、強烈な権威を振りかざして教える人気者の牧師がいる。彼らは学者ではない。また、彼らを聖書学者とは決して呼ばないでほしい。彼らは聖書のことを知らない。証明引用しかしない(自分の考えを正当化するために文脈を考慮せず、短い箇所を抜き取って根拠とすること)。彼らは、自分の命が懸っていたとしても評釈などできない。チャールズ・スタンリー、マーク・オドリスコー、ジョセフ・プリンスなどがこのカテゴリーに入る。

良い学問とは何だろうか?ピア・レビューだ(査読)。他の学者が自分の研究の価値を認めてくれることだ。またそれが時を超えて価値を維持することだ。その結論の正しさが証明されることだ。一つ例を挙げよう。ヤロスラヴ・ペリカン氏は、キリスト教の教理の歴史について五巻に渡る研究を出した。それは大学の出版局によって出版された。それは、ものすごく高い価値があることを意味する。これらの本は、100年経っても今日と同じだけの価値があるだろう。エアードマンズ、フォートレス、ウィプフ・アンド・ストック、SMCプレス、ブラックウェル、ダブルデイが出版するものはほぼすべて価値の高いものだ。それらの本は、優秀な編集者による手厳しい校正を必ず受けている。私自身の図書はこれらの出版社の本ばかりだ。

そして、本当にお願いしたのだが、エミール・シューラー氏の「イエス・キリストの時代のユダヤ人の歴史」の改訂版(昨世紀末の第一版はまだクリスチャンの書店で販売されているようだが、そっちではなく)を読んだことがない人が、ユダヤ教についてどうこう語るのはやめてほしい。外典、偽典、死海文書、ミシュナー、トセフタ、タルグム、フィロン、ヨセフス、ミドラーシュ、タルムードを一文も読んだことのないクリスチャンが、どうやって古代のユダヤ教を理解し始めることができるのか、全く不思議でたまらない。Facebookで、イエスやパウロの時代のユダヤ人たちが信じていて「律法」についての投稿をよく見かけるが、すべてでっち上げのデタラメだ。こんなふうに話すクリスチャンは、ユダヤ人の兄弟姉妹を侮辱している。「新しい契約」に生きるクリスチャンになるなら、「古い契約」の人達を理解し、彼ら自身の現実を理解すべきだ。アウグスティヌスやルターを通してパウロを読むのはやめないといけない。1世紀に生きたユダヤ人としてパウロを読むようにならないといけない。またイエスを1世紀に生きたユダヤ人として知るようにならないといけない。

私がThe Jesus Driven Lifeを書いたのはこのためだ。人々がイエスの時代のユダヤ教についてとんでもなく酷いことを言い続けているのに我慢が出来なくなったからだ。

よし、言いたいことを吐き出せた。さあ皆、学習して、相応しい者だということを証明しよう。聖書を読み、あらゆるツールを活用しよう。もし近くに大学や聖書学校があれば講義を聞きに行けばいい。お金はそんなにかからない。無知で満足してはいけない。あたかもそれがクリスチャンの美徳かのように思っている人もいるが。いつかあなたも知的な会話に参加することができ、意味と影響を与えることもできるようになる。お願いだから、「聖霊様が私を教えてくれる」とか「子どものようにならないと」などとぶつぶつ言うのは本当にやめてほしい。神はあなたに脳味噌を与えた。使いなさい!脳と心を共に働かせることを学ぶべきだ。疑問を怖がってはいけない。あなたの神に対する理解が変わっても良い。それこそが、本当の悟りへの道かもしれない。」