信仰,  聖書学

聖書は自分の想像力・創造力を働かせながら読もう

16世紀の宗教改革以降、特に聖書が印刷機によって多数印刷される、クリスチャンが個人的に聖書を読めるようになってから、聖書に書いてあるものをそのまま読んでそれが真実だ、とする考えが広がったようだ。

聖書は、本来は自分の想像性・創造性を存分に発揮して、特に文脈など気にし過ぎず、神の偉大さと大きな愛、憐れみ、真実を語る為に自由に解釈するものだった。それが、特にユダヤ人達の伝統だ。

その中でタルムード、タルグム、ミドラッシュ、ミシュナーなどの書物が書かれ、多様な解釈が流行った。イエスの時代でも、どれだけぶっ飛んだ独特の解釈ができるか、ラビ同士で競い合っていた言われている。

なぜ神はアブラハムにイサクを捧げるように命じたのでしょうか?エレミヤ書には、我が子を火で焼いて生贄にすることなど、思い浮かんだこともない、と神は語っている。

ミドラシュでには、このような解釈がありる。ヨブ記からの連想を当てはめているのは明らかだ。

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アブラハムは、高齢で生まれたイサクをたいそう可愛がりました。あまりの溺愛ぶりを見て、サタンは神に「アブラハムは今は貴方よりもイサクを愛している」と言います。アブラハムの忠実さを知っていた神は、サタンの訴えをぶち壊す為に、アブラハムに試練を与え、イサクを全焼の生贄として捧げるように言いました。神の目的はサタンを負かせることで、最初からイサクを傷付けるつもりは全くなかったのです。
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これは、ユダヤ教の世界的権威であるジョナサン・サックス氏の最新の著書 “Not in God’s Name” (神の名によらず)に出てくる解釈だが、僕は読んですごく感動した。

解釈が正しいかそうでないかは、あまり関係ないのかもしれません。聖書を読むときは、想像力と創造力を働かせながら、自由な発想を持って、神と共に交わる世界の素晴らしさを存分に味わうことが大切なのかもしれない。

その世界に踏み入れるためには、やはりミシュナーやミドラシュなどのユダヤ教の伝統的な書物も読まないといけない。それを理解すれば、イエスや弟子たちがどのように聖書を読み、理解したかがもっと分かるかもしれない。

これを言うと、「でも聖書の66巻は神の霊感によって書かれていて、他の書物とは区別すべきだ」という人がいる。でも、これには大きな問題が二つある。まず、この霊感説の根拠になっている2テモテ3:16は、動詞のない文章なので、「聖書はすべて神の霊感によって書かれている」という訳は、当てずっぽうにすぎないのだ。「全ての霊感的で有益な聖書は・・・」という訳も可能だ。そうすれば、聖書の中に霊感で書かれた箇所とそうでない箇所がある、と言っていることになる。

前者を採用するにしても、ギリシャ語の「グラフェー」は旧約聖書に限定されるので、新約聖書の正典の採択の根拠となる箇所は聖書の中にはない。それには、教会の権威と聖霊の導きを信じるしかない。では、この「グラフェー」は、単純に我々が今日読む旧約聖書のことなのだろうか?「グラフェー」とは、「書物」の意味であるが、何の書物のことだろうか?旧約聖書と言っても、ヘブライ語なのか、ギリシャ語の70人訳(LXX)なのか(新約の著者が引用したのはLXXだ)。また、2テモテ3:16の数節前には、このような箇所がある。

2テモテ3:9
「また、こういう人々は、ちょうどヤンネとヤンブレがモーセに逆らったように、真理に逆らうのです。」

さあ、モーセに逆らったヤンネとヤンブレは、旧約聖書のどこに出てくるだろうか?答えは・・・出てこない!彼らが出てくるのは、タルグムと呼ばれる書物で、モーセの五書を後世の人がアラム語で独自の解釈を加えて書いているのだ。これもある種の「グラフェー」なのだ。

もし、2テモテ3:16を、「グラフェーはすべて神の霊感によって書かれている」と解釈するならば、同じ書物、しかも同じ章の中で引用しているグラフェーを省いていいのだろうか?

尚、霊感によって書かれているからといって、それが史実とは限らない。ヨブ記がフィクションなのは疑いのない事実だが、聖霊がフィクションを書いてはいけないというルールはない。人の解釈で書かれたタルグムも、ミドラシュも、ミシュナーも、すべて神の息によって造られた人間が、神に思いを馳せて書いた「霊感的」な文学作品なのだ。

そこから得られるものは非常に大きく、神への見方が変わるかもしれない。これから、是非そのような書物ももっともっと読んでいきたい。