パウロ,  釈義

「新パウロ観」から「ポスト新パウロ観」!!?

最近アマゾンで注文したのが、デューク神学校教授ダグラス・キャンベルの著書 “The Deliverance of God”(神の解放)です。1200ページにも及ぶ膨大な研究で、2009年に出版されましたが、基になった研究は1990年ぐらいから開始されています。

聖書や神学を学べば学ぶほど、教会(特に保守系の福音派・カリスマ派)で教えられていること、多くのクリスチャンがSNSで垂れ流しているメッセージがどれだけ陳腐で時代遅れで、はっきり言って誤りだらけかが分かります。プロテスタントの象徴的存在であるルターは、彼らの時代の影響を受けて神の啓示が与えられました。すなわち、カトリック教会の権威主義に反対して、教会の求める「行い」にうんざりして、ガラテヤ書とローマ書を読んで「信仰義認」に行き着きました。

しかし信仰義認が聖書をとおして一貫して教えられている訳ではありません。また現代のクリスチャンは、キリストを信仰するか否かで天国・地獄が決まる、というルターもおそらく考えていなかったような結論を今でも教理の中心に据えています。

ルターは、カトリック教会の横暴が目立った時代において、その権威主義から脱却し、自由に個人で信仰生活を送り、聖書を自分で読んで理解ができる道を切り開きました。カトリック信者でも聖書を自分で読めるのはルターの功績が大きいです。しかしルターがパウロの書物にある言葉を正しく理解していた訳ではありません。

60年代にルター的なパウロ解釈を見直す動きが始まり、それが今では今では「新パウロ観」(NPP, New Perspective on Paul)と呼ばれています。E. P. サンダースという神学者の処女作 “Paul and Palestinian Judaism, The Historical Figure of Jesus” (1977)で、当時のパレスチナ地方のユダヤ人たちがどのような信仰を持っていたのかを明らかにする研究に一気に火がつきました。イエスとパウロの言葉の真意の追究です。

新約聖書時代のユダヤ人、特に神殿の宗教行事を支配していたパリサイ派やサドカイ派が実際に何を信じていたか、そして初期のユダヤ人クリスチャンがどんな宗教的影響を受けていたかを知らなければ、パウロが何を「行い」と呼んでいたのか、キリストがなぜパリサイ派と喧嘩ばかりしていたのか、これらについて深刻な時代錯誤に陥ります。それが今のプロテスタントの教会の大部分です。

「新パウロ観」では、パウロは決して「良い行い」と「信仰」を二元論に立てて信仰によって救われるが行いでは救われない、と言っているのではい、との見解が広まっています。「行い」と訳される言葉は、パウロが「偽教師」と呼んでいたヘブライスト(ユダヤ教の戒律を強調したクリスチャン)が異邦人に要求していた割礼やコシェル(ユダヤ教に則った食事)・安息日の遵守を指していた、という見解です。これは、単純にルターから出た信仰義認(カルバン派の予定説はもっと醜い)よりもしっかり歴史的、言語的研究に基づいたパウロの福音の解釈です。

しかし、これらが教会で語られることはありません。米国在住の神学者の友人は、このような神学校で行われる最先端の研究が一般の教会員に届くまで75年ぐらいかかる、と言っていました。多少大袈裟かもしれませんが、新パウロ観の研究から少なくとも50年以上経った今でも、日本の教会では全く語られていません。聖公会主教のN.T. Wrightの研究会が1つあるだけです。

(これはFacebookにもあって、一般の人も参加できるので貴重です。またいのちのことば社が彼の著書「シンプリー・ジーザス」の邦訳を出しています。)

これは勿論ルターへの批判ではありません。彼やカルバンなど宗教改革の指導者たちはそれぞれの時代に重要な役割を果たしました。しかし彼らの聖書の読み方が永久不変の正しい読み方ではないんです。今は、彼らが全くアクセスできなかったような情報が五万とあり、イエスやパウロの時代の歴史背景やユダヤ教についても新しい発見が驚くほど溢れているんです(死海文書の発見なんかは良い例ですね)。

冒頭で述べた1200ページの膨大な本は、この「新パウロ観」をさらにチャレンジし、当時のパレスチナの歴史は勿論、2000年の教会史とギリシャ文学史など、総合的な観点から真新しいパウロ理解を提示しているのです。ある学者は「ポスト新パウロ観」と読んでいます。この研究には当然賛否両論あり、出版から既に7-8年経過した今、キャンベル氏の研究を批評する本も出ています(そのうち1つをKindle版で手に入れました)。

これが世界のスタンダードです。神がイエス・キリストを通して本当に我々に啓示されたことは何だったのか。パウロや他の弟子たちが命をかけて私たちに伝えようとしたことは何だったのか。伝統に凝り固まらずにあらゆる分野を駆使して研究するのが、本当に聖書を愛する人達の奉仕です。このような研究の成果が日本の教会で一般的に語られるのはいつになるでしょうか?

僕は、神学校で学ばれることと教会の講壇から語られることに乖離があるのは良くないと思います。神学的な考察を進める為のツールや考え方、視点を、何10万円も徴収して専門的な学校で教えるのではなく、教会でも普通に教えるようになるべきだと思います。

そのような日が来ることを祈り願います。そして、私たちが一歩でもキリストの福音に近づき、この世の癒しと回復を見られたらと思います。そして僕はまずこの本の目次と前書きを何とか読み終わることを今週の目標にします^_^