社会,  釈義

聖霊は弱き者の味方

「また私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。」ガラテヤ1:14

パウロは、律法を忠実に守っていたパリサイ派時代のことを思い出してこう言っている。この見当違いの熱心はダマスコに向かう道でズタズタに切り裂かれたのだ。

サウロ(パウロの旧称)は、自分が神の御心を行っていると思い込んでいた。おかしなカルトに傾倒していしまい、律法の「聖さ」から逸脱した人たちを牢獄に入れて殺すことは神に従う自分の使命だと思っていたのだろう。ミデヤン人の妻をもうけたイスラエル人を夫婦共々槍で突き殺したピネハスを祝福した神、エリヤがサマリヤ人の町に火を下すことを許された神、そしてエリヤがバアルの預言者を皆殺しにすることを許された神は、当然ユダヤ教の聖さを守ろうとする自分の味方だったとサウロは考えていた。

しかし違った。

「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」

新約聖書で何度も繰り返し出てくる謎めいたワンシーンだ。パウロは、少なくとも「主」と呼ぶべきだと認識できる人に幻の中で出会うのだ(9:5)。それはイエスだった。

でも、イエスは死んだはずだ。そしてパウロはイエスを迫害していた訳ではなく、木に架けられて殺された人(呪われた人)を礼拝している人たちを迫害していたのだ。しかし、パウロに出会ったイエスは、その被害者の立場に立って「わたしを迫害している」と言うのだ。イエスは彼らの苦しみをその身に背負っていたのだ。この出来事はあまりにも衝撃的で、パウロは3日間目が見えなくなってしまった。これはイエスが言った言葉である:

「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」ヨハネ9:39

 

しかしその盲目は、サウロの迫害の被害者になるはずだった一人の信者の愛と赦しによって癒されたのだ。

そこでアナニヤは出かけて行って、その家にはいり、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中でお現われになった主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」るとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。
使徒9:17-20
パウロの目が開かれ、聖霊に満たされたのは、本当の神は被害者と共に立つ神、被害者の声を吸い上げて下さる神、そして癒しと赦しを流し出す神だと気付いた時だった。

 

このことを、聖霊派・カリスマ派のすべての「聖霊運動」などに携わる人たちが理解出来たらどれほど素晴らしいだろうか?パウロが「聖霊」について教えている時は、このダマスコでの経験を基に書いていることを忘れてはいけない。彼は、非物質的な何かに憑りつかれて超自然的なことができるようになる、という意味で聖霊について教えているのではなく、ダマスコへの道で復活のイエスとの出会いを振り返りながら、虐げられた人々、被害を受けている人々と共に立つイエスの霊について書いているのだ。イエスもヨハネ14章後半で聖霊のことを「パラクリート」と呼んでいるが、これは「代弁者」とも取れる。パウロも聖霊を「代弁者」のように理解していただろう。聖霊は、最も社会的に被害を被っている人たち、迫害を受けている人たちの声を吸い上げて正義を求めるように働かれるのだ。

これが理解できれば、長年ずっと祈り続けてきた「リバイバル」に一歩近づくことができるかもしれない。

1件のコメント

  • 阿部洋

    ボクはペンテコステなので、この記事に興味を持ちました。