信仰,  社会

問題は「地獄」よりも「天国」

キリスト教の伝統的な「地獄」の概念を否定するのは非常に簡単だ。聖書で「地獄」として連想されている箇所を、当時の文化や思想、言葉の語源などで示せば、死後に大部分の人間が地獄で永遠に苦しむということは後世のでっち上げだということは簡単に説明できる(そんな簡単なことも理解できないクリスチャンが多いのはもうどうしようもないが)。やはり、永遠に火で燃やされるような地獄がないことを示すと多くのクリスチャンから賛同と共感を得らる。誰もそのような場所に生きたくないし、家族や友人はもとより、極悪人でさえそこに行かない方がいいと考える人がほとんどだ。

しかし、僕は地獄だけでなく、「天国」も積極的に否定したい。クリスチャンが一般的に教えられている「天国」は、実は地獄以上に悪魔的で偽善的な教えで、イエスキリストの教えに真っ向から反するものであり、イエスキリストに対する裏切りなのだ。よく考えると、クリスチャンがこんなことよく信じられるなと思うし、それをずっと信じてきた自分に怒りが湧いてくるぐらい馬鹿げた教えだ。

(思ったことを包み隠さず率直に書きますので、天国を否定されて傷つく方は読まない方が良いかもしれません。)

尚、誰が天国に行けるかについての説明にそこまで一貫性がある訳ではないが、大体「正しいことを信じた人々」「罪を悔い改めた人々」「心が清められた人々」「キリストに従い、キリストを礼拝する人々」などが天国に行くと教えられている。逆に、正しいことを信じない人々、罪を悔い改めていない人々、心に憎しみや悪い思いを抱えている人、キリストに従わない・礼拝しない人はそこから排除され、滅ぼされるそうだ。

この世界では、社会に適合しないと判断された人は隔離され、時には滅ぼされる。我々のルールに従わない人々、常識が分からない人々、「矯正」をしても治らない人々は社会から排除されていき、自分たちと同じような道徳観を持ち、善悪の判断ができ、同じ価値観に基づいて接すことができる人同士で生活していく。

しかし、クリスチャンが語る天国は、これと同じようなものだ。むしろ、同じ価値観を持たない人の排除が徹底されている。もし神の国がこのようものであれば、神は人間と全く変わりない!全能ですべての創造主なる神様は、最も醜い罪人を立ち直らせる力も創造力もなく、人間と同じようにその人を排除し、滅ぼしてしまう残念な存在ということになる。

人間社会は、自分たちと違う人に責任を押し付けて犠牲にすることで成り立っている。そしてその生贄を捧げる際に神の名を唱えるのだ。これが、人類の初めから人間を束縛してきたサタンの力だ。ヨハネ8章では、イエスと弟子たちがモーセの律法にある安息日の規定に従わなかったということで、パリサイ人は彼らを殺そうとする。イエスは、彼らの父は悪魔であり、悪魔は最初から人殺しだと言う。それは、社会秩序に合わない人を排除する人間の古くからの習性だ。それに従う人々が悪魔の子なのだ。そしてイエスはそれを暴く為に来た。その生贄は偽りであり、神の名を唱えて捧げ物をするのも偽りだと示したのだ。

もし天国が、天国のルールに合わせられない人を永遠に排除するのなら、それは人間の悪魔的な道を最上級化したにすぎない。そのような場所は、人間が自然に望むものなのだが、イエスはそれに「ノー!」と言う。暴力的で悔い改めない人を排除するのは最も簡単なことだが、イエスは「いや、敵を愛しなさい」と言う。迷った一匹の馬鹿な羊など放っておいて残りの99匹の安全を確保することは常識だが、イエスは「いや、神の国はその一匹を探し出して連れ戻すのだ!」と言う。精神病で自傷行為をするような人を墓場に追いやるのはコミュニティにとっては安全かも知れないが、イエスは「いや、お前たちこそ死んだ豚のようだ、私はこの人に服を着させて落ちてついて座らせることができる!」と言う。若僧のくせにユダヤ教の伝統・秩序にイチャモンをつけるラビきどりのガリラヤ人をローマの総督に引き渡して十字架に架けるのは、国を守るためには賢明な判断でだろうが、神は「いや、それは私の子であり、彼は無実だ、そして私は彼を死から蘇らせる!」と言うのだ。

我々の現代社会が下す判断は、古代の文化よりも正しいと思いがちだが、排除を基にした社会秩序は、必ず無実の人をも殺してしまう。それも「正義」と「平和」の名の下に。クリスチャンが長く教えられてきた「天国」の概念は、この排除に基づいた社会秩序の延長にすぎないのだ。我々の考えに賛同しない人たち、同じように振る舞うことを学べない人たちは永遠に排除され、似た者同士で神を永遠に礼拝するのだ。その神は、我々の排他性を是認するだけでなく、彼自身がその栄光の為に最大かつ最終的な排除を行う。

その「神」は偶像であり、イエスキリストのアバ父ではない。天国をこのように考えるのは、人間の独善性と宗教的盲目の結晶なのだ。

最後に、これについて是非考えてほしい:
「愛は寛容で、愛は親切です・・・愛は決して絶えることがありません。」
(1コリント13:4-8)
我々が「天国に入れない」と考える人達、罪を悔い改められない人達、心が清められていない人達は、我々には到底理解できない理由がある。彼らこそ、最も神の愛を必要としているのではないだろうか?

「神は愛」「すべての動機は愛」などと御託を並べながら、クリスチャンの最終的な目的地が愛や寛容や親切を最も必要としている人たちを永遠に排除する場所だとしたら、これほど哀れな信仰はないのではないか?

是非「天国」について、今まで教えられてきたことを振り返り、聖書と照らし合わせ、イエスの言葉に導かれながら、これからも考え続けていくことをお勧めしたい。