信仰,  聖書学

聖書は「神の言葉」なのか?

私は聖書を「神の言葉」と呼ぶこともあります。それは名称として便宜的に使います。しかし聖書66巻がすべて神の言葉だという根拠は聖書にあるのでしょうか?

結論から言うと、ないです。ある訳がないでしょう。聖書は何も「一緒に66巻の聖書を作るプロジェクトをしよう」と数人がグループを組んで書いたのではありません。1000年以上も時代を隔てた人たちが自分の知見や体験に基づいて記したものを、初代教会のクリスチャンたちが選定して編纂したのです。ですから、聖書の書物の著者たちは、自分たちが「聖書」を書いているという意識すらなかったでしょう。
ですから、聖書に「みことば」「神のことば」などの単語が出てくるとき、それを「聖書」と解釈するのは、「聖書は神の言葉」という刷り込まれた先入観を挿入しているのです。

「こどば」がたくさん出てくる箇所というと、ヨハネ1章が思い浮かびます。下に箇所を載せていますが、ここで言う「ことば」は、イエスキリストのことだと容易に分かるでしょう。

初めから永遠に神とともにおられるのは聖書ではなく、イエスキリストです。
闇に打ち勝って光り輝いているのは聖書ではなく、イエスキリストです。
人となって私たちの間に住まわれたのは聖書ではなく、イエスキリストです。
満ち満ちた豊かさの中から私たちに恵みの上にさらに恵みを与えてくださるのは聖書ではなく、イエスキリストです。

私たちは聖書を信じることによって救われるのではありません。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」とイエスはヨハネ5:40で言っています。救い主は聖書ではなく、イエスキリストです。

「聖書は神様から私たちへのラブレター」というのを聞いたことがあるでしょう。比喩表現としてそう使いたいなら構いませんが、神様から人類への愛の贈り物は聖書ではなく、人です。十字架の死を背負われたご自身の独り子イエスキリストです。

文盲で聖書を読むことができなかったり、聖書にアクセスできない地域に住んでいる人もいます。そんな人たちでも、イエスキリストによって救われるのです。最初の使徒たちはイエスキリストの教えを広めました。新約聖書はありませんでした。なくてもキリストの教えは変わらず広められるんです。彼らに「ラブレター」は必要なかったのです。「ラブ・パーソン」が与えられていたからです。ヨハネが1:18で言っているのがまさにそうです。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」

本当の神を現したイエスと、彼らは3年も一緒に過ごし、彼を見て、触ることができたのです。それ以上のギフトはないでしょう。
この世にあるすべての聖書が燃やされ消え去ったとしても、神の真実は何一つ変わらないのです。神は、そして十字架にかかって蘇られた主キリストイエスは、聖書よりも偉大であり、聖書はそのすべてについて書ききれません。キリストの言うように、聖書はキリストについて証しています。なので聖書を読み、それを重んじ、学び、行うことは大切です。でも聖書ではなく、イエスキリストに救いがあることを忘れてはなりません。

もし聖書に従う、というならそれは「聖書教」です。私たち「キリスト教徒」が従うのはイエスキリストただ一人です。

では、聖書の中にあるイエスキリスト以外のことばはどう扱えば良い?それはまた次回私の考えをシェアしようと思います。

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ヨハネの福音書1章
1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
2 この方は、初めに神とともにおられた。
3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
6 神から遣わされたヨハネという人が現れた。
7 この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。
8 彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。
9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
15 ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことです。」
16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。