信仰,  社会

~エマオへの道~ 僕がキリスト教を批判的に書く理由

多くのクリスチャンは私のFacebookなどでの投稿を見て、教会や他のクリスチャンをかなり批判しているように読めるでしょう。もしかしたら、私がキリスト教を嫌いになったかのうように映るかもしれません。

しかしそんなことは決してないです。私は今でのイエスキリストに心から従うクリスチャンであり、多分銃を向けられても信仰を捨てることはないでしょう。また、キリストの教えに従う人が一人でも増えればと心から願っています。

でも「キリスト教」と言う時、それぞれのクリスチャンは「キリスト教とはこういう意味だ」という考えがあるかもしれませんが、主観的な認識はあまり意味がないと思います。「キリスト教とはこうだ」と世間一般にどう認識されていることに真剣に向き合わなければ問題の解決は見えてきません。

人々が一般的に認識している「キリスト教」のイメージと、キリスト教の本来のイメージ、すなわちイエスが説いた教え、また初期の信者たちが築いたコミュニティとはかけ離れたものなのは間違いないです。日本は世界のどの国よりもキリスト教の宣教師を受け入れている国なのに、クリスチャン人口は1%程度。なぜでしょうか。

日本では、もっともっとクリスチャンが増え、社会に影響を与え、この社会を変えていくようになってほしいと思います。聖書の箇所をコピペして「アーメン」と言い合ったり、神様がどれだけ素晴らしいか、教会でどれだけ恵まれたか、そういうハッピーな投稿をする人はいくらでもいます。だから別に私がそれに便乗したからと言って何の益にもならないと思うんです。何かを変えるには、自分の所属グループを批判的に見ないといけない。自分の所属グループのダメなところ、変化が必要なところを徹底的に絞って厳しく批判する姿勢がなければ、そこから劇的な解決策が出てくることなどあり得ないと思います。

毎年「今年こそだ」とか「リバイバルは近い」と叫んで「聖霊充満集会」やら色々な祈祷会やカンファレンスをやっています。「ダビデの幕屋」とか「イスラエルの回復」とか楽しいキャッチフレーズを広めて「24時間祈りの家」など、信者に時間と体力を消耗させるような教会運営を行い、それも心から信じて熱心にやっていますが、実際に大きな変革はなかなか起きません。

そこでどうするのでしょうか?これをこのまままた20年30年繰り返すのか。同じことを繰り返して違った結果を期待するのは狂気そのものだ、とアインシュタインも言っています。立ち止まって、深く考える必要があるのではないでしょうか。自分の信じていることが本当に正しいのか吟味することが必要なのではないでしょうか。

私はキリストの教えは素晴らしいもので、それを本当に理解できたとき、多くの人は「それに従いたい!」と思うはずだ、と確信しています。未だに1%の理由は、本当にキリストが教えたことを語っていないからなのではないでしょうか。教会に来ることや、酒やタバコをやめること、結婚前にセックスをしないこと、同性愛は間違っていること、聖書をちゃんと読むことなどなど、キリスト教の伝統として発展した「教義」を教えているのであって、ほとんどの教会はキリストの教えを教えていません。上記のことをキリストは一度たりとも教えていないのに、キリスト教と言えば必ず前述のものが連想されるでしょう。

要するに、福音が広まっていなくてクリスチャンが増えないのは、単純にクリスチャンが福音を語っていないからかもしれません。教会ごっこ、クリスチャンごっこをやっているだけなのかもしれません。ここから脱却するには大きなパラダイムシフトが必要です。

私は昨年の夏ごろに信仰が大きく変わりました。今まで信じていたことが、色々書籍を読んで新しい発見をするにつれて大きく崩れ去りました。しかしその中でキリストが新しい信仰の形へと導いてくれたのです。

ルカ24:13-35には、エマオという町を歩いている2人の話が出てきます。キリストが死んで復活するという混乱の中、自分たちが信じていたものが脆くも崩れ去り、将来が見えなくなっていた2人の弟子が歩いていました。そこに、正体を隠しながらイエスが近付き、「モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた」と書いてあります。その後イエスが正体を現した後、彼らは「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」と言いました。その後の45節には、弟子たちに対して「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いた」とありあす。私たちが今必要なのは、このような経験ではないでしょうか。

残念ながら、福音書にはイエスがエマオの道でこの2人の弟子たちに話した詳細は記されていません。しかし、文脈から察するに、キリストはヨハネのバプテスマを受けてからの3年間で語ったことを彼らに繰り返した可能性が高いです。だから答えは福音書にあるはずです。しかし、こうして目が開かれた弟子たちは死をも恐れず、キリストの福音を世界中に宣べ伝え、それが私たちの元にまで届けられてきたのです。

私たちは皆、キリストによって目が開かれる必要があります。私は色々と考えながら、葛藤しながら、悩みながらFacebookやブログで書いていますが、私一人では何も変えられません。去年色々な信仰の変化があり、今までよりも目が開かれたとは思いますが、まだまだ盲目だと感じます。キリストがエマオの道で2人の弟子の目を開いたのは、パンを裂いたときでした。キリストの教えたことの本質に立ち返り、新たな悟りを得るには、共に集まってパンを裂き、葡萄酒を飲み、キリストの引き裂かれた体と流された血潮を覚える必要があるかもしれません。

そのような仲間がこれからも増えていくことを心から願います。そうすれば、きっとこの世の中を変えることができる。神の御国のような世界が築けるかもしれない。皆で是非それをやりたいと思います!