LGBTQ+

僕の証 ~神様が僕にLGBTの差別撤廃を呼び掛けるように語って下さった~

(「証」とはクリスチャン用語で、信仰における体験談など人に伝えることを指す)

僕は一年前に信仰が大きく変わりました。それまでは、比較的な保守的なクリスチャンでした。保守的なキリスト教では、キリスト教を信じないものは皆死後に地獄で滅びると教え、同性愛者ならびにLGBTの人たちを罪人だと断罪し、自分たちと違う聖書解釈の人たちを「異端」呼ばわりする傾向があります。僕は自分の中でそういうことに疑問を抱いていて、心の中ではそれは正しくないと分かっていました。

しかし保守的な聖書観で育った僕にはそれを言語化することができずに時が過ぎていきました。しかしたくさん本を読んでいるうちに、リベラル派のクリスチャンの考え方に出会いました(アメリカでは「メインライン」とも呼ぶ)。そこで自分が抱いていた疑問の多くが解消され、キリストの愛と平和の福音に信仰を置き、聖書を全てキリストと中心として読み解くと、別に誰も差別する必要がなく、神が人を地獄の炎で焼き尽くす残酷な人だと思う必要もないことが解りました。むしろ、キリストを本当に神の現れと信じ、彼の教えを信じるなら、そっちの方が正しい聖書解釈だ、と確信を得られるようになったのです。

実はLGBTに関しては、かなり前から心の中では別に罪ではないと考えるようになっていました。しかしリベラル神学に傾倒するうちに、それが更に強いものへと変わり、教会が今まで行ってきたLGBTの方達に対する差別や罪を悔い改め、彼らが社会的な平等を勝ち取ることができることを願うべきだと思うようにもなりました。

ある時、自宅でトニー・キャンポロ師と妻のペギー師の説教をポッドキャストで聞いていた。トニー師はクリントン米大統領のアドバイザーも務めた方で、米国でも有数の知名度を誇る牧師だ。2人はアメリカの同性愛者クリスチャンのカンファレンスで語っていました。実は、ペギー師はLGBTアクティビスとで、クリスチャンでありながら同性婚も含めLGBTの完全な受け入れを支持してきました。一方夫のトニー師は、聖書的には同性愛は神の御心ではない、と信じながら、教会がLGBTコミュニティに対して行ってきた差別を悔い改め、社会的には全く平等の権利が得られるようにと訴えかけていました。彼らの権利の為に戦うという点では夫婦一致していたものの、聖書の解釈は夫婦違っていました。それでも夫婦として何年も寝床を共にしていたのはすごいと思います(この説教はかなり前のものですが、トニー師は昨年の6月に以前の聖書解釈を翻意し、聖書的にも完全に受け入れるべきとの立場を表明した)。

僕は既にペギー師と同じ立場でしたが、この説教で、ペギー師が語ったことで人生が変わりました。彼女はある話をしました。ある伝道集会に行くためにトニー師と一緒に他の2人の牧師に車に乗せてもらいました。話をするうちに、その2人の牧師たちは、同性愛者の悪口を言い、世の中の悪を同性愛者のせいにし出したのです。トニー師は彼らの偽善的な発言に対して猛反発し、クリスチャンが同性愛者を愛し受け入れるべきだと熱弁しました。しかしペギー師は黙っていました。その後、彼らと別れた後、ペギー師は神様にこう語られたと言います。「あなたが黙っていたから、あの2人はあなたが自分たちと全く同じ考えだと思ってそこを去った」と。

これを聞いて涙が溢れました。僕はあまり説教を聞いて泣いたりするタイプじゃないです。でもこの時は涙が止まりませんでした。自分は仕事でも友人関係においても、自分がクリスチャンだと普通に伝えます。Facebookでもそう公言し、そういう投稿もしています。しかし、多くの人は、「クリスチャン=同性愛嫌い」と思っているのです。僕がどれだけ心の中で違うことを思っていたとしても、声を上げなければ、皆僕は他のクリスチャンと同じように同性愛者を汚い罪人だと考えている、と思われて当然なのだ、と気付きました。なぜなら多くの同性愛者はクリスチャンに罪人呼ばわりされ、差別され、物理的にも精神的にも居場所を奪われてきたのです。だから、僕は声を上げないといけない、と強く神様に語られました。

それ以来、主にFacebookやTwitterと、SNSではありますが、とりあえず自分の考えを明確に書くことを始めました。そして今年の6月にフロリダのゲイバーで銃撃事件がありました。たくさんの死者を出す悲しい事件でしたが、アメリカでは同性愛差に対する裁きだ、と言う人さえいました。僕は、「キリストは彼らを裁いてはいない、ゲイバーの中で彼らと共に銃弾を浴び、苦しまれた」というメッセージを書き、いくつかのクリスチャングループに投稿しました。すると、「あなたは罪を容認するのか」「これは何の教え?キリスト教?」「聖書を歪曲している」などと猛烈な批判を受けました。実はこれらのグループには、聡明なクリスチャンもたくさんいるのですが、彼らの意見は脳死状態の原理主義者によって排除されてしまうのです。しかし、僕の投稿に共感して下さった方達がそれを拡散して下ったのです。その方達と知り合い、友達になり、たくさんのことを分かち合って学ぶことができました。

今年の8月からは、大阪から東京に移り、新しい生活が始まりました。ここでは、LGBTの問題について考える集会が定期的にあり、それに参加することもできました。クリスチャンの方が主催しており、本当に恵まれたでした。久しぶりに「本当の教会」に行った感じがしたと言っても過言ではないでしょう。今までは思ってもいなかったほどLGBTのクリスチャンの友人が多く与えられました。これから何か一緒にできるのではないか!と思えるようになってきました。さらに嬉しいことに、海外にいる同性愛者の友達からも、「教会から長く離れてしまったが、ケンが語るイエス様にまた出会ってみたい」と言ってもらえたり、家族が同様の問題で困難を乗り越えた証なども、個人メールで送っていただいたこともありました。

僕は当事者ではありませんので、彼らの本当の葛藤や困難を共感することはできません。でも、LGBTのクリスチャンの人たちも、「自分たちだけではできない、当事者じゃないのにこれだけ情熱的になってくれる人はなかなかいないからすごく嬉しい」と大歓迎してくれます。ですから、全ての人が神に平等に造られた作品であり、同じ尊厳と安全が守られるべき、との信念のもと、これからも声を上げていきます。そして自分の性自認で悩んでいる子ども達、若者達にも、当事者の方々と協力しながら、届いていけるようになったらいいな、と思っています。

キリストにあって一切の差別はありません。日本で、そして世界のすべての国で、人が自分の性に関わらず、尊厳と安全と基本的人権が守られ、愛と平和の中で生きていける世の中になることを心から願っています。以上、僕の証でした!

(注:世間一般ではLGBTQやLGBTIQ、LGBTQIAなど、LGBTの4つ以外の性自認やどれにも当てはまらない人を含む表現も見られますが、本ブログでは「LGBT」で統一させていただきます。この表現にはゲイ、レズビアン、バイセクシュアル、トランスジェンダー以外のセクシャルマイノリティーの方も含めてのものだと考えており、排除する意図は全くありません。今後、当事者の方達とも話し合いながら、より適切な表現が必要と判断した場合は修正させていただきます。何卒ご理解のほど宜しくお願い致します。)

1件のコメント

  • toe

    素晴らしい証ありがとうございます。原理主義者の脳死は自殺に近いように思います。
    聖書絶対主義の牧師は正しいので、牧師に反した考えはサタンの誘惑で罪だ、と教えられました。だから牧師を疑う罪をおかす脳を自分で殺す。
    そして朝から晩まで自分の罪をほじくり返して神に謝り自分を責める。
    その度合いがすごいほど教会内では尊敬される。
    私がそこから出られたのは「セクマイだったおかげ」です。
    牧師が「救われた瞬間に同性愛は治る」と言ったから、我が身を思ってそれはないと思いました。
    でもセクマイじゃない人はその間違いを事実として知らないから、教会を出るきっかけを得られず今も苦しんでる。

    困っているのはどちらも同じ。
    数が多いか少ないかで。
    私たちが受け入れてほしい、考えがいくらか違っても共存したいと思うなら、原理主義の教会を出られない人を理解し受け入れ共存する道を探したいです。

    私もつい議論しちゃうし、偏った考えで全否定されちゃうと怒ってしまうので💦