信仰,  釈義

カインとアベル

昨日新しいテレビドラマ「カインとアベル」が始まったそうだ。見ていない。見るつもりもない。興味もない。でも、電車の中でこのドラマの広告が目に入ってから程なくして、自分が読んでいる本にカインとアベルの話が出てきた。日本のテレビ局がプロデュースできるどんなドラマよりも、僕の心には深く突き刺さったカインとアベルの話をここでシェアしたい。

この本とは、クロアチア出身の神学者、ミロスラフ・ヴォルフ氏の「排除と抱擁」だ。ヴォルフ氏はクロアチアからドイツ、アメリカと渡ったが、ドイツのテュービンゲンでかの有名な神学者ユルゲン・モルトマンの下で学んでいた時、ヴォルフは授業の中で、「キリストが十字架を通して敵への愛を示したように、我々もキリストの愛によって敵を抱擁すべきだ」と熱弁したが、その後でモルトマンはこう囁いた。「あなたは、チェトニックを抱擁できるか?」彼は答えに詰まった。チェトニックとは、自分の母国クロアチアで虐殺、婦女暴行などを働き、市街地を地獄の光景に貶めた憎きセルビア兵である。キリストに従う者として敵をも愛で抱擁すべきとの思いと、苦しむ母国の同胞を裏切れないアイデンティティ、この葛藤を乗り越えるべくした書いた本である。「排除と抱擁」は96年に出版され、グロマイヤー賞の宗教部門を受賞した名作である。

その中にカインとアベルの話が出てくる。ヴォルフ氏曰く、従来カインをイスラエル周辺の民族、アベルをイスラエルの象徴として見る解釈があるが、その見方は「被害者の自分」と「加害者の相手」という構図に分けようとする人間の自己中心の罠に嵌っているだけだ。これは人類の歴史を表したストーリーであり、自分も含め、全ての人間がカインにもアベルにもなり得るのである。

長子のカインは喜びを持ってこの世に迎え入れられた。「主によって男の子を得た」と母のエバは喜ぶ(創世記4:1)。アベルの誕生のシーンは特記されていない。この時点でカインはアベルよりも力を持っている。しかしそれが神の介入で崩れる。カインは作物を神に捧げたが、アベルは「羊の群れの中から肥えた初子を持って来た」とより具体的に書いている(同4:5)。それに主が目を留められた。しかしカインの捧げ物は拒絶された。

確かに、神の介入による立場の逆転は聖書に頻繁に出てくるテーマである。穴に投げ込まれて奴隷として異国へ売られたヨセフが国の首相となり兄達を支配する。末っ子で恐らく愛人の子であったダビデが7人の兄を抑えて王となる。キリストは貧しい者が幸いで、富んでいる者が災いだと言った。後のものが先になり、先のものが後になる、上に立つ者は仕えよ、もこの類に入る。
自分よりも努力した兄弟に自分の優位な立場を奪われたカインの反応が物語の醍醐味である。無に等しい筈の弟が尊ばれ、優れている筈の自分が拒絶される。まずここから嫉妬心が生まれる。次にそれが怒りに変わり、アベルと神とに向けられる。カインは自分の基準よりも高い神の判断基準を突き付けられたとき、その結果を受け入れられなかった。カインの選択肢は二つ。自分が変わるか、それとも・・・。

ヴォルフ氏の言葉をそのまま引用する。

神を見上げることをせず、彼は顔を伏せることで神との関係性を断ち切った(5節)。神の声を聞かず、神の忠告を無視した(6-7節)。「野に行こう」と誘う行為により、自分の犯した罪を公正に裁くべきコミュニティを排除した(8節)。最後に、最大の排除的行為として「弟アベルに襲いかかり」彼を殺害した(8節)。カインの殺人行為は「意図のない行為」とも言われている。しかしそうではない。殺人に意図がないことはほとんどない。それはカイン自身の推測による完全なロジックに支配されていたのだ。推測1:「もしアベルが神が言った通りの人なら、自分は自分自信が理解していた通りの人ではない。」推測2:「自分は自分自身が理解していた通りの人物に間違いない。」推測3:「神がアベルに対して言ったことを覆すことはできない。」結論:「アベルは存在し続けることができない。」カインのアイデンティティは初めからアベルの存在に関連して構築されていた。価値のないアベルに対して、自分は優れた者だった。しかし神がアベルをより優れた者だと言ったからには、自分のアイデンティティを180度覆すか、アベルを排除するしかなかった。「排除」の行為には「正当な理由」もある。罪の力は、抑えきれない欲望や反応よりも、説得力のある正当な理由に依存している。それは歪んだ自己認識により、自分のアイデンティティにしがみつこうとするからだ。勿論、これらの理由に説得力があるのは自分に対してだけだ。神を騙すことはできない。だからカインは「なぜ憤っているのか」という問いに対して答えない。

ヴォルフ氏の「罪」に対する見解は非常に深くて共感できる。それは、悪い思いを抑えられないのではなく、自分とは何者かをわきまえず、自分のしていることを「正当」だと思い込んでしまうことが罪に繋がるというのだ。なるほど、これをしたから正しい、これをしてしまったから罪を犯した、ではなく、そもそも神は自分と自分の兄弟や他人のことをどう言っているのか、そしてそれを受け入れて自分を振り返り、歪んだ傲慢な自己認識から悔い改めることができるか、それができずに他人を排除し自分も破滅に追い込むのか。それが罪と悔い改めの奥義なのかもしれない。またヴォルフ氏はこう言う。「罪を犯すロジックは、正しいことをせよという命令よりも強い。それはそのはずである。罪のロジックは、良いことを行う義務を避ける為に編み出されたのだから。」正しいことと分かっていながら、それをしない理由を強固なロジックで正当化するところに人間の罪の深さがある、というのは非常に説得力がある。

「あなたの弟はどこにいるのか」との神の問いに、カインは偽証を持って答える:「知りません」(9節)。暗に容疑を否認し、さらに「弟の番人ではない」との言葉を加える(9節)。弟の居場所について責任がないと言うのだ。また「番人ではない」という答えは質問者を馬鹿にすることでその問いの真意から逃れているのだ。「(羊の)番人が番人を必要とするのか。」罪のイデオロギーは、その行為と責任の両方を否定し、時には皮肉も用いる。しかし「罪のイデオロギー」は、単なる外部の批判を閉して逃げる方法には留まらない。罪を犯す者は、自分の良心の声を押さえつける為にそれを用いる。

しかし、神は永遠の裁きを下すことはしない。最後に必ず救いと赦しがある。カインには救いと赦しの希望が神によって与えられていた。彼はそれを幾度も拒んだが、それでも神は彼に憐れみを施したのだ。

この物語の希望は神にあり、神がカインの行為に介入したところにある。殺害行為の前に神の介入が既にあった。「なぜ憤っているのか。」(6節)この問には実りがなかった。カインは神に背を向けた。しかしこの神の介入は、カインに怒るべき理由があったかもしれないが、カインには怒る権利はなかったことを確立している。殺害行為の後、神の二度目の介入が見られる。「弟アベルはどこにいるのか。」(9節)これも実がなかった。自己正当化と否認を駆り立てたのみだった。しかしここでも神は、コミュニティの中での生活は同じ社会領域を共有し、相手に対して責任を負う場所だということを明確にした。神の三度目の介入は、怒り溢れる裁きだった。「何ということをしたのか」。(10節)神がなぜ質問をし続けたのかが分かる。虐げられた者のうめき声を聞く神ヤハウェは、殺人を予知していてそれを警告したのだ。辱められ、残忍な行為を受けた者に味方する神は、無実の血の叫びを聞き、罪を犯した者を罰したのだ。神からの質問がその目的を成し遂げられなかったため、神による裁きがそれを成し遂げた。ようやくカインからの応答が得られたのだ。

自分の過去を振り返ってみても、悪いこと、人を傷つけること、後になって後悔するようなことをする前には、必ず自分の良心の声、神の声が響く。しかしそれに耳を貸さずに自分の罪を正当化して行動し続けると、最後は裁きしかなくなるのだ。その心の声に聞き従えば、その神の声がこれからの人生の中で大きくなり、それを無視し続ければ、その声は聞こえなくなって来るのだろう。そして自分の欲望に満ち溢れた悪魔の声ばかり聞こえるようになり、罪を「罪」とも意識せず、破滅の道を歩むことになるのかもしれない。
しかしその中にも神の恵みがあり、カインも他人に襲われることのないよう印を神が与えて下さった。この印には、ヴォルフ氏によると、カインを犯罪者としてマークを付けるのではなく、彼を守るためのものであり、彼の犯した犯罪がさらに犯罪を呼び、犯罪の悪循環が生まれることを避けるためである。このストーリーを、最後は神の恵みとキリストの十字架に焦点を当てながらヴォルフ氏は締めている。

カインの手抜きの捧げ物に目を向けなかった神が、命の危険に晒された殺人者に優しさを示した。カイン自身が始めた排除のサイクルに彼も巻き込まれるように見捨てはしなかった。神の刻印が刻まれたカインは、神に所属し、神に守られた者として神の御前から去っていった(16節)。人類の歴史の中で、カインは守られたものとして残っている。そして受難日(聖金曜日)に彼は救われるのである。抱擁と全く逆の行為を行い、自分の身体を他人の身体に殺意を持って向けたカインが、十字架につけられた神のもとに引き寄せられ、抱擁されるのだ。十字架の抱擁が、カインの嫉妬心、憎しみ、そして殺意を癒すことができるだろうか・・・もしカインが、自分を抱擁する者を愛することを学ばなければ、十字架の抱擁は彼を癒すことができない。兄弟を殺した「反対の型」であるカインは、私たちの為に命を捨てた「原型」であるキリストによって癒される。しかしその為には、彼はキリストの足跡を歩まなければならないのである。

このカインは自分なのだ。自分の罪を正当化し、自分を破滅に追い込んで、神から離れた人生を送ってしまう。しかし神はその憐れみ故に私たち一人一人を十字架のもとに引き付けて下さっている。それに応答し、キリストの足跡に従って歩み、隣人を愛することが出来るようになった時に、全ての罪から清められ、解放され、癒される。そこに信仰があり、希望があり、神の偉大な愛があるのだろう。

もしこれよりも深い哲学的な考察が得られるようであれば、カインとアベルのテレビドラマも見てみたいと思うかもしれないので、どなたか教えていただければと思う。でなければ、偉大な信仰の先輩たちから学びながらキリストの教えの本質をさらに探っていきたい。