釈義

よく誤解されている聖書箇所② 告白しないと赦されない??

Iヨハネ1:9
私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

この御言葉をそのままとると、自分の罪を告白することが赦しの条件だと思っても仕方ありません。罪を告白する→赦される。シンプルな構図ですよね?これを根拠に、罪を告白しなければ赦されない、神に罪を赦していただくには罪を告白しなければならない、という教えが説かれています。しかし、これは聖書的に正しいのでしょうか?

結論から言うと、僕は正しくないと思います。僕はキリストの十字架の上で全ての罪が赦されたと信じます。今までの罪も、今抱えている罪も、これから犯す罪も。「罪を告白しないと赦されない」という考えによって「告白しない罪を抱えたまま死ぬと地獄に行く」という神学にまで発展してしまいます。私たちが自分の罪をすべて正しく認識して告白することなど無理です。性的な罪や盗みなど、犯してしまう行為の罪は認識して告白しやすいですが、妬みや恨みなどの思いの中の罪、貧しい人たちを顧みない無関心の罪など正しく認識して全て告白できますか?厳密に言えば「いつも喜んでいなさい」を守れないのも罪でしょう。それを皆告白しないと地獄行ですか?これではキリストを信じてクリスチャンになっても天国に行くためのハードルが高すぎます。イエスキリストの十字架の代償が無意味になってしまいます。

(実はキリストは十字架に架かる前からも罪の赦しを宣言していましたし、キリストは世の始めから神の子羊だったとも書かれています。私たちは初めからずっと赦されていた、しかし十字架までそのことが分からなかった、とも理解できます。)

尚、罪を告白することが悪いとは言っていません。勿論、使徒ヨハネはこの箇所で、私たちがお互いに罪を告白し合い、それと向き合い、赦し合って生きていくことを望んでこう言っています。

まず、聖書の言葉を見ていく前に、考えてほしいのが、AならばBという方式があったとしても、非Aならば非Bという方式が必ず成り立つとは限らないということです。例えば、「コーヒーを飲んだら目が覚める」というのが正しいとして、「コーヒーを飲まなければ目は覚めない」というのが正しいとは限りません。また神様を天の父として考えた時、自分が息子に例えば「宿題をしたら晩御飯を食べよう」と言うかもしれません。しかしそれは宿題をしてほしいから言うのであって、なんらかの理由で宿題ができなくてもご飯を食べさせないということは絶対ありません。それは虐待になります。罪の赦しに関しても、神様は私たちに自分の罪ときちんと向き合うために告白してほしいと願っておられるでしょう。罪を隠し続けてその中に生き続ければ自分の身を滅ぼしてしまうだけですから。だからといって告白しなければ赦されず地獄に落とされる、という訳では決してありません。

では、そう考える聖書的根拠を見ていきましょう。まず最初に見るのが、Iヨハネ1:9です!そうです、この箇所そのものです。ここには「すべての悪からきよめてくださいます」とあります。では質問です。キリストは私たちをすべての悪からきよめて下さるのですか?それとも告白した分の罪だけを取り除いてくれるのですか?ここには「すべて」とはっきり書いてあります。なので赦しを得るために何回も何回も罪を告白し続ける必要はないのです。

そしてここの「告白」は「同意する」という意味です。なので、神が自分のすべての罪を赦して取り除いてくれた、ということにも同意することが必要です。ですから、神の赦しを得る為に罪を犯すたびに告白しなければならない、という認識はこの箇所そのものに反しているのです。

では他の聖書箇所で、罪の赦しについて、またキリストの十字架についてどう言っているのかを見てみましょう。

へブル9:26ではこう言っています。「キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。」他にも使徒の働き10:43、13:38などでも、使徒たちは罪の赦しを宣言していますが、これから犯す罪は赦されていない、ということは一切教えられていません。ローマ8:1では「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」

多くのクリスチャンが、赦されるために告白が必要という根拠で1ヨハネ1:9を挙げる理由はシンプルです。聖書の他のどこにもそんなことが一切書かれていないからです!1ヨハネ1:9もしっかり文脈で読めば、告白しないと赦されないという理解は成り立たないことが解ります。

2:1-2
「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。 この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。」

そうです。私たちが告白するから赦されるのではありません。十字架に架かられたイエスキリストの弁護によって赦されているのです。しかも、それは全世界の罪です。告白された罪だけ、というのは全く聖書的ではありません。

聖書にはいろいろなストーリーがあります。1節だけ切り取って教義を築き上げる「切り貼り神学」が蔓延していますが、人々を惑わし縛り付けるとんでもない教えになる恐れがあります。皆さん、必ず覚えておきましょう。私たちのすべての罪は既に完全に赦されているのです。