信仰,  釈義

十字架を通して神の国に行くのではない

十字架のことを、神の国に入るための架け橋だと考えている人が多い。しかし僕はそう思わない。

十字架は神の国への架け橋ではなく、神の国そのものである。十字架に架かったキリストは、神の怒りを鎮めた生贄ではなく、私たちのすべての罪を背負い自らの命を投げ捨てて下さった神ご自身である。

神の国は、死後に全てがユートピアのようになる場所ではなく、人々が互いに愛し合い、仕え合い、慰め合い、重荷を負い合い、涙を拭い合う世界である。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:34-35)

この互いへの愛が完全に集約されたのがキリストの十字架である。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。 わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。」(ヨハネ15:13-14)

キリストは私たちを、よその世界にある神の国に連れていく為に来られたのではなく、神の国をこの地上にもたらす為に来られた。だから主の祈りでも「御国が来ますように。
みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」と教えられた。「御国に行かせてください」ではない。

そしてキリストは弟子たちとの交わりの中で、神の国とはどのようなものかを教えられた。キリストが去った後にその弟子たちが、そしてその教えを継承する私たちが、神の国をこの地上で作っていけるためだ。

「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。 」マタイ18:1-4

「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」マタイ20:25-28

ヨハネ13章では、キリストが弟子たちの足を洗うという、教師と弟子という関係ではありえないことを行う。13:1「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」そして洗い終わった後に言います。3:14-15「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。 」

キリストがされたことは、全て私たちが行ってすべき模範なのだ。

キリストはついに十字架に架けるが、その裁判の時、ピラトにこう言った。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」

ではキリストの国は、よその世界のものなのか?ルカ17:20-21ではイエスがこう言っている。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」キリストがピラトに言っているのは、神の国はこの世界の人々が思い描くような国ではないということ。暴力から自分を守るために暴力を振るうことはしない。だから弟子たちはキリストを守るために戦うことはしなかった(わからずやのペテロを除いて)。

キリストの国は、この世の国のように権力者がいて他の者を支配するようなものではなく、互いに仕え合い、最後の最後まで愛し支え合うような国だ。

キリストが十字架に架かって死んでくださったのはその国の実現の為です。私たちにその愛を最大限の形で示すことに他ならない。

私たちは、十字架を通して永楽の国へ行くのではなく、十字架を背負いつつ神の国を体現するよう召されているのだ。だからキリストは。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と言われたのだ。(ルカ9:23)

パウロも「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」と言っている。(ガラテヤ2:20)

弟子のヨハネがこのようにまとめてくれている。
「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」1ヨハネ3:16

これこそが神の国の実現だと僕は強く信じ、いつかそういう日が来ることを願っている。

私たちは十字架を通して神の国に行くのではない。神の国そのものである十字架のもとに行き、そこで人となられた神に出会い、その十字架を背負い、自己犠牲の愛を持って生きることによって神の国を広めていくのである。