聖書学,  釈義

「神の言葉」と「紙の言葉」②

 

「聖書は神の言葉である」から始めると、自分の手の中に神の言葉がある、聖書を語れば自分も神の言葉を語っている、という誤解が生じてしまうのです。自分を神の代弁者と勝手に思い込んでいるクリスチャンがあちらこちらにいます。

神の言葉を語れるようになるには、神の言葉と出会い、それが自分の一部にならないといけません。キリストはこう教えました。

「まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。」マタイ12:34-35

つまり、私たちの心がキリストによって変えられ、聖霊に満たされなければならないのです。では、キリストにどう出会えるでしょうか?キリストとはどんなお方でしょうか?パウロはコロサイ2:9-14でこう言っています。

「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」

十字架こそ神であるキリストの本当の現れであり、そこに赦しと愛があるのです。私たちの責めを無効にして下さっているのです。

ですから、神の言葉を使って人を責めたり、裁いたり、呪いや滅びを宣言するのは、サタン(告発する者)です。神はキリストの十字架によって、一切の罪を赦し、債務を全て無効にして下さったのですから!

また、神は十字架で死なれた「苦難のしもべ」なのです。王座に着いているカエサルではありません。上から目線で裁いたり宣言するのではなく、私たちの苦しみを追って下さるのがイエス・キリストです。

「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。」
‭‭イザヤ書‬ ‭53:3-5‬

実は、イザヤの預言は40章あたりから66章まで一つのストーリーになっています。時間があれば是非全て読んでほしいです。53章では苦難のしもべですが、61章では福音を語るメシヤ(油注がれた者)になるのです。イエスはこれを引用します。

ルカ4:18-19
「わたしの上に主の御霊がおられる。
主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、
わたしに油を注がれたのだから。
主はわたしを遣わされた。
捕われ人には赦免を、
盲人には目の開かれることを告げるために。
しいたげられている人々を自由にし、
主の恵みの年を告げ知らせるために。」

私たちがこの「神の言葉」であるイエス・キリストに出会い、聖霊に満たされた心から語る時に、憐れみ、平安、赦し、癒しが溢れ流れるのです。私たちの心から溢れる神の真実の言葉によって、人が解放され、目が開かれ、傷が癒され、神の深い深い愛が多くの人々の心に流れ出ていきますように。