聖書学,  釈義

「神の言葉」と「紙の言葉」①

多くのクリスチャンは全く何も考えず「聖書は神の言葉だ」と言い放ちます。しかしそれがどのような信仰に繋がっているのかを見れば、それは大きな間違いだと思えるようになってきました。そこから始まってはいけません。

私たちは人間であり、神ではないのです。どのような聖書の考察も探究も、そこから始めなければなりません。「聖書は神の言葉だ」から始めると、聖書を手に取ったときに、自分が神の言葉をもっている、と勘違いしてしまうのです。しかしそれはだだの「紙の言葉」です。聖書に書いてある神の言葉が語られたとき、そこには人がいて、文化的・社会的なイベントがあり、感情があり、その前後の流れがあるからです。

パウロが「主イエスを信じなさい、そうすればあなたもあなたの家族も救われます」といった時、そこには自殺を思いとどまったばかりで怖れに満ちていた看守がいます。彼には愛する家族もいるのです。また町の看守でローマ帝国に仕えているという文脈もあります。その文脈から抜いて語って、それが100%正しいと確信が持てるのでしょうか。

キリストが十字架についた時、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。最近どこかの投稿で「私たちの罪を背負っていたから、神を『父』と呼べなかった」とありました。ナンセンスです。「父よ、彼らの罪をお赦し下さい」「父よ、魂をあなたに委ねます」と何のはばかりもなく十字架の上から父と呼んでいます。この箇所は、詩篇22編を唱えて、その初めの1節が挙げられていますが、17節を読めば「まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。」父が子を見捨てたことは一時もなかったのです。

では聖書は神の言葉ではないのか?そう言っているのではありません。「あなたは神ではないので、あなたが聖書を語ってもそれは神の言葉にならない」と言っているんです!悪魔もパリサイ人も聖書の言葉を語りますが、それは神の言葉ではありません。

では人間が神の言葉を語ることはできないのでしょうか?そうとも思いません。しかし、神の言葉に出会ったことがなければ、それを語ることはできません。聖書は、「神の言葉」についてなんと言っているでしょうか?「4世紀に編纂されるであろう66巻のコレクションこそが神の言葉だ」とは書いていません。しかし、このような素晴らしい希望が書いてあるのです。

ヨハネ1:1-5, 1:14
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった……ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

「ことば」とは、イエス・キリストのことです。キリストが神の言葉です。聖書は、キリストについての証なのです。キリストである「神の言葉」に出会い、キリストが遣わした聖霊によって私たちの心が変えられた時に、私たちの心に神の言葉が根ざし、そこから溢れるように神の言葉が流れ出るようになるのです。それはただ語るという意味ではなく、私たちの人生の全てを通してです。

ヨハネ7:38
「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

ヨハネ14:26-27
「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」

聖霊に満たされた心から出る神の言葉は愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制などを語るのです(ガラテヤ5:22)。ここには恐れや裁きや滅びの警告、脅しはないのです。

私たちはそれぞれ聖書理解や色々な考えが違うかもしれませんが、一人一人がキリストによって心を造りかえられ、神の言葉を力強く語っていけるようになることを祈り願います。

1件のコメント

  • 後藤 修一

    ひとこと、我々は神の人となる。
    究極の願い いや、そういう存在だと信じ歩む