信仰,  釈義

新しい1年―最も大切な戒め

あけましておめでとうございます!今年も宜しくお願い致します。

昨年の9月から始めたブログを定期的に読んで下さっている方が何人かいるようで、大変感謝なことです。2017年度も、時折更新していきたいと思います。

自分はウェブデザイナーでも何でもないので、かなりシンプルなブログで、フォントや色などデザインの工夫が全然ありませんが、今年はもう少しその辺りも、色々な人にアドバイスをいただきながら頑張っていきたいな、と思います。

さて、新年度初の投稿は、クリスチャンとして一番大切なことから行きましょう。

最近読んでいる本の中で分かってきたのは、当時ユダヤ人の中でも色々な律法の解釈があり、よくパリサイ人や律法学者が一字一句律法を守ることを強要していた、なんて言われますが、実際そうではなく、モーセや預言者たちの言葉のより深い意味を探ってそれを説き明かすような解釈も良く行われていたようです。

年末に読んでいた “The Bible Tells Me So” (Peter Enns師著)がこれについて詳しく書いてありました。また Michael Hardin師の “The Jesus Driven Life” でも、パリサイ人や律法学者に対する現代クリスチャンの誤解について書いています。英語が読める方は、是非読んでみて下さい。どちらもかなりの良書です。(あ、聖書に書いてあることは全て一字一句正しい、という方は、その考えが覆されますので、ご注意ください。笑)

ともかく、時代が移り変わり、ローマの支配下にあったユダヤ人たちは自分たちの宗教、世界観を大きく見直し、また律法や預言者の解釈も見直されて行きます。その中で、彼らが論じていたこと一つが、「最も大切な戒め」です。イエスもこれについて聞かれました。しかしイエスは非常に面白い答えを返します。イエスは、律法に基いた教えを語りますが、同時にご自身の新しい教えも語っているのです。

マルコ12:29-31(新改訳)
「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」

「唯一の主である」のニュアンスは、「主は一つである」に近いです。つまり、これは2つの戒めではなく、一つの戒めです。神を愛しながら隣人を愛しないことはできません(Iヨハネ4:20参照)。次に、ここは旧約聖書の申命記6:5ではこうなっている。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」 「精神」は「思い」と同義だとして、「知性」がなぜか挿入されています!

「律法に書いてあるから」「パリサイ人が言っていたから」ではなく、自分の頭で考えろ!!とイエスは仰りたかったのかもしれません。現代のクリスチャンにもきっと同じことを仰ると思います。つまり、イスラエルの人々が家でも外でもどこでも唱えていた、まさにいにしえの御言葉(参照:申命記6:7-9)に、ご自身で勝手に一句付け加えているのです!

では、「隣人への愛」はどうでしょうか?これに関しても、キリストは質問をした人たちが意図していたこととは違った教えを説きます。これはルカの福音書が描いてくれています。

ルカ10:25-37
「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」 イエスは答えて言われた。

「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』

この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

この質問をした律法学者は、「隣人を愛せよ」という戒めを聞いたとき、律法にあるこの御言葉を思い出したでしょう。「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」(レビ記19:18) 勿論、自分の国の人は愛していました。自分は隣人を愛している!と思っていたでしょう。しかしイエスは、自分の同胞だけを愛するような戒めにとどめません。相手に良くすることだけでなく、わざわざユダヤ人と敵対していたサマリヤ人をヒーローに仕立て上げた例え話をするのです!

キリストにとっては、「隣人」は自国の人だけでなく、敵も含むのです!実は、このイエスの理解は律法の本来の目的なのです。レビ記19章を読んでいくと、34節にこうあります。「あなたがたといっしょの在留異国人は、あなたがたにとって、あなたがたの国で生まれたひとりのようにしなければならない。あなたは彼をあなた自身のように愛しなさい。あなたがたもかつてエジプトの地では在留異国人だったからである。わたしはあなたがたの神、主である。」

イエスは、敵も味方も皆含めて「隣人を愛しなさい」と説いたのです。マタイ5:44の「あなたの敵を愛しなさい」と全く合致するのです。

このように、キリストは律法をそのまま文字通り与えて「従いなさい」という言う方ではありません。隣人への愛を説くために、律法の本来の奥義を語る場合もあれば、神であるご自身の権威によって、モーセの律法に新たに自分の教えを挿入することもあるのです。キリストは聖書よりも権威が上ですから!(参照:マタイ28:18)

この隣人への愛、そして神の愛、これは本来一つの戒めで、片方でも欠けてはいけないですね。これは善良な生き方の教えではなく、「永遠の命」に関する教えですから。

まだまだですが、2017年はもっと神を愛し、隣人を愛する一年にしたいな、と心から願います!