信仰,  聖書学,  釈義

「聖書に誤りはない」という主張に誤りはないのか?

「原典において、聖書は誤りなき神のことばである」

1978年に「聖書の無誤性に関するシカゴ生命」が発表され、アメリカの多くの福音派の神学者がそれに名を連ねました。それが日本でも福音派の間で広く信じられており、「聖書は誤りがない」「矛盾がない」という考えが主流とされています。

しかし、無誤性に関しても色々な考えがあります。救いや生き方の指南について誤りがない、とする「限定無誤説」もしくは「無謬説」と呼ばれるものもあれば、歴史や科学の問題に関する言及も誤りがないとする「十全無誤説」や、歴史、科学、内的整合性など全ての面において一字一句全く誤りがないとする「絶対無誤説」もあるのです。

では、誰の「無誤説」が「無誤」なのでしょう??「無誤」自体様々な異なる定義があるのですから。

例えば、神が太陽の動きを止めた、とする箇所を説明はどうなるのでしょうか。元々動いているのは太陽ではなく地球なので(他にも、地球が平たいことを前提にするなど、古代の人たちの宇宙や地球に対する間違った知識で書かれた箇所が無数にある)、ここは科学的に言えば誤りではないのでしょうか?(ヨシュア10:13)その程度の「誤り」を認めるのであれば、他にどこまで認められるのでしょうか?

最も古い写本の中には写し間違えの箇所があったり、同じ事象を記録した2つの箇所が違っていることもあります。例えばIIサムエル記23:8では、ダビデの部下の勇士が一度に800人殺したとありますが、同じ事象を記録したI歴代誌11:11には同じ人物が300人殺した、となっています。(実は違う時のことだ、違う人物だ、などとする主張はありますがかなり無理がります。)

さらにややこしいのが、誰が選んだ聖書の書物が無誤なのかという問題です。プロテスタントはカトリックや正教会が認めている旧約聖書外典を聖書に含めておらず、東方正教会やコプト教会なども含めると、それぞれの聖書に含まれている書の数に相当な違いが生じます。そして、当然ですが、我々が読むそれぞれの現代語版聖書の訳は誤差が大いにあり、かなり不完全なものばかりです。

当然、これらの細かい誤りは大したことがない、聖書全体の無誤性には影響しない、と主張する人もいます。でも「無誤」を主張する人たちは、それぞれ自分なりの「無誤」の定義があるようです。片や「無誤」というかなり具体的かつ精度の高さが求められる主張をしながら、何をもって「無誤」とするかについては曖昧模糊に終始してよいのでしょうか?

更に、聖書に出てくる全ての人物が証しする神の性質が無誤なのでしょうか。それとも「義人」の証だけが無誤なのでしょうか?例えばヨブ記では、ヨブの友人が語った神についての言葉は、後の神によって「正しくない」とされますが、彼らの言葉のどの部分が正しくないかは明らかにされていません。その中に真実はないのでしょうか?また「義人」の証だけが正しいのであれば、誰が義人なのか、そしてどの時において義人なのかという問題も残ります。ダビデはたくさん失敗を犯していて、恐れや怒りの感情をそのまま詩篇に記しているようですが、それも全て無誤なのでしょうか?詩篇はダビデ自身の性格がはっきりと表れていて、時には神が「力を失った」とか「耳が聞こえない」などとまで言います。神に対する人間的な葛藤を大胆にぶつけています。モーセだって人殺しであり、自分の言葉に自信がなかったことが聖書から分かります。これらすべてを明確な「無誤」の基準に落とし込めるのでしょうか?

それとも、聖書の中には人間の性格や葛藤、誤謬、意見があからさまに表れている、と見る事はできないのでしょうか?聖書はとてもカラフルで、神学的主張も様々で、人間性が顕著に見られます。その「人間性」が現れるところにおいて、当然「誤り」も記されていると言えるのではないでしょうか?その中でさえ神の霊感が働いと考えることはできないのでしょうか?聖書の各書物を書いた人たちは、自分たちの弱さの中で聖霊によって動かされ、唯一の神を心から求めつつ、彼らの世代の文化や価値観の制限の中で預言的に語ったと考えてはいけないのでしょうか?

「無誤」の定義は100通りあるかもしれませんが、誰が「無誤」に対する誤りのない定義を持っているのでしょうか?結局、それぞれ持っている無誤の定義は「自分の定義」にすぎないのです。自分が正しいと思う聖書の読み方、解釈の仕方こそが正しく、それに同意しない人は皆間違っている、聖書を否定している、都合の良い部分を取っている(矛盾がない、という方がよっぽど都合に良い部分をとって他を無視していると思えるが・・・)などと他者を批判するのは、聖書ではなく自分の知性や理解や教派の伝統を「無誤」視しているのではないでしょうか?

キリスト教(特にプロテスタント)は何万もの教派に分裂していますが、それぞれが「自分たちの考えこそが正しいのだ」と信じ込んでいます。聖書の無誤性を主張する人たちも、皆それぞれ自分の考えで「無誤」の定義を選んでいます。それは聖書的でもなく、伝統に基づいているのでもなく、個人の感性によって簡単に揺らぐ「砂の上の家」だと言えるでしょう。

聖書の無誤性ではなく、キリストの教え、生き方、十字架と復活を中心として対話と実践によって、神の福音が広まっていくことを心から望みます。

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